北京
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中国共産党初期の理論家。1895年上海に生まれ、その後湖南省双峰県に引っ越しました。長沙第一師範学校在学中に毛沢東と知り合い、ともに「湘江評論」を創刊し、「新民学会」を組織しました。
1919年フランスに留学、周恩来らと共産主義運動を始めます。パリにおいてマルクス・レーニン主義を猛勉強するだけではなく、ロシア革命や共産主義に関する書籍をたくさん翻訳しました。毛沢東や陳独秀に何度も書簡を送り、初めて明確に中国共産党の創立を提案した上で、党の結成に関する理論と原則についても初めて系統的に述べました。1921年に帰国して中国共産党に入党、中国共産党最初の政治機関紙《嚮導》の責任者として活躍しました。1924年には『社会進化史』を発表し、1925年には五・三〇事件に参加、その年の12月にはソビエト連邦に赴き、モスクワ中山大学に学びました。中国共産党第5回全国代表大会において中央政治局委員、常任委員に当選し、中国共産党中央秘書長を兼任します。1928年、モスクワで中国共産党第6回大会から帰国した後、香港で活動中に逮捕され、処刑されました。
中国で共産主義が注目され、普及するようになったのは、十月革命後のことでした。その頃、中国にも共産主義が浸透する社会的基盤が成熟していました。世界大戦を経て、中国にも資本主義生産が発達し、プロレタリア階級も成長しつつあった上、文学革命によって青年・学生たちは伝統思想からの解放を模索し、真理を追求する情熱に燃えていました。それゆえ、共産主義が急速に伝播したのは、党の周辺にいた知識人や共産主義の出版物を通じてであったと考えられています。さらに、中国における共産主義の浸透に大きな役割を果たしたのは、1919年春から始まった勤工俭学運動でした。この時フランスに留学した人々の中には、中国共産党主義の発展に大きく貢献した者が多くいました。彼らの中には、周恩来、朱徳、鄧小平をはじめ、陳毅、蔡和森も加わっていました。彼らが帰国したとき、中国の共産主義運動に大きな拍車がかかったことは言うまでもありません。