日本に留学した中国共産党の初代総書記――陳独秀

2021-03-30 11:23  CRI

日本に留学した中国共産党の初代総書記――陳独秀

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 陳独秀(ちん どくしゅう)は、中国共産党創始者の一人で、初代総書記に選出されました。中国共産党成立の過程において、「南陳北李」、すなわち陳独秀と李大釗の貢献が人口に膾炙しています。

 陳独秀は1879年、安徽省安慶市で生まれました。1901年から当時の清朝政府によって奨励されていた日本への留学に応じ、東京高等師範学校速成科を卒業しました。日本では留学生の間に高まっていた、満州族の清王朝を打倒する民族主義革命の思潮に影響され、東京で中国同盟会に参加しました。1915年に帰国し、9月に上海で『青年雑誌』(のちの『新青年』)を創刊します。『新青年』において陳独秀は、伝統的な文化や社会体制が中国の近代化を妨げる元凶であるとして徹底的に否定し、「民主」や「科学」といった西洋文明の原理を全面的に取り入れるべきだと主張しました。この主張は、当時の中国の知識人の広い共感を得て、陳独秀は一躍有名なジャーナリストとなります。

 1918年に李大釗(りたいしょう)と『毎週評論』を創刊。マルクス主義を宣伝して、「二十世紀のロシア革命」という文章も発表し、人類社会の変動と進化の鍵を握る革命としての十月革命の歴史的意義を述べました。また、五・四運動時期の急進的民主派にもなりました。中国共産党の創立はコミンテルンの指導がありました。コミンテルンはヨーロッパの革命運動の行き詰まりから、前年7月「民族および植民地問題にかんするテーゼ」を採択し、先進国のプロレタリアートの革命運動を支援することと並んで、帝国主義に抵抗する植民地の民族解放運動をも積極的に支援する方針を決定しました。その中で、使者を何度か中国に派遣し、新文化運動に参加し、五・四運動の中心となっていた陳独秀や李大釗らに共産党結成を働きかけました。その結果各地に共産主義グループが結成され、1921年の共産党結成を準備しました。そして、陳独秀は1920年上海で共産主義グループを組織し、1921年7月に中国共産党が成立すると、党の総書記に選出されました。その後、初期の中国共産党の指導者として、第1次国共合作を進めましたが、1927年には蔣介石の上海クーデターが発生、その後の共産党の敗北の責任をとらされる形となり、「右翼日和見主義者」として幹部の地位を追われ、1929年トロツキストとして除名されました。

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