青年による民間の草の根交流

2018-06-19 15:12  CRI

<青年による民間の草の根交流>

「中日学生手語交流事業10年間の軌跡」

  藤田安彦

  早稲田大学北京教育研究センタ/顧問

  (元)国際交流基金・北京日本文化センタ/所長

  (設立時)ボアオアジアフォーラム/主席兼CFO

1.初めに
(1) お陰様にて「日中学生手話交流」は、2009年の四川大地震・被災地の聾唖学校の慰問を初めてから、翌年の南京市の活動に続き、それ以来毎年継続し、10年目を迎えることができました。 まさに「継続は力なり」です。これまでご支援を頂きました皆様に心より御礼を申し上げます。ここで過去10年間を振り返り、これまでの軌跡を紹介いたします。
(2) この交流事業は、中国に留学中の日本の大学生が中国の手語を勉強し、中国の聾唖の学生と交流する「青少年による民間の草の根交流」です。これまで参加しいた学生は総勢112名となりました。 日本の留学生は日本と中国が隣どうしで仲良く暮らせるように、日中関係の改善に少しでも貢献したいとの思いで、この活動に参加してくれました。どうか暖かく見守っていただきたくお願い致します。

1. 「日中学生手語交流事業」10年間の軌跡
(1) 「第一回」の2009年5月は中国・四川大地震の被災地を訪問しました。
 2008年5月12日に四川で阪神地震の約30倍という大地震が発生し、死者と行方不明合わせて8万7千余人、約500万人が家を失いました。 災害現場に入った最初の国際救援隊は日本の国際緊急援助隊でした。 31名の隊員が掘り起こされた犠牲者の遺体に頭を垂れて黙祷する一枚の写真は、中国中を巡り、多くの中国国民を感動させました。

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 内外から多くの寄付が寄せられ、しばらくして被災地の人々の心のケアをする活動も開始されましが、障害者への援助はありませんでした。

 「国際交流基金・北京日本文化センタ」は、被災地の聾唖の子供たちを慰問することを計画しました。 北京大学の留学生会に相談、幸い会長の中山さんが自ら呼応してくれました。 早速、中山さんをリーダとする10名が集まり、「中国手話同好会・留学生支部」が結成されました。 「早稲田大学北京教育研究センタ」が練習場所の提供や多くの便宜を図っていただき、計画は実行に移されました。 「北京日本人会」の「中国手話同好会」の「楊光遠」老師が快く中国手話の指導を引き受けてくれました。一方、被災地では「四川省人民対外友好協会」が共催を快諾していただきました。

 こうして、地震発生後一年目となる2009年5月に、四川省・徳陽市中江県の特殊教育学校を慰問することが出来ました。

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 *その時今でも忘れられない感動のシーンがありますのでここで紹介します。

 学生たちは、中国手話による自己紹介を始めました。 そして、留学生たちが選んだ曲の一つが「陽光総在風雨後」でした。 その歌を演じた場面は今でも忘れらません。歌の長いイントロでは、初めての経験で、留学生たちの緊張している様子が伝わってきました。 練習通りにと言い聞かせているようにタイミングをとる留学生たち。 演技が始まると留学生たちをじっと見つめる耳に障害を持つ子供たち。

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 陽光总在风雨后 太陽はいつも風雨のあとに出てくる

 乌云上有睛空 暗雲の中にも晴れ空がある

 珍惜所有的感动 すべての感動を大切に

 每一份希望在你手中 一つ一つの希望を手に

 感動のシーンは突然やってきました。 歌が始まってしばらくするとその子供たちが、留学生をまねて一緒に手話を始め、“合唱”が始まったのです。中には泣いている子もいました。 その瞬間、留学生と子供たちと心が解け合ったかのようでした。 歌っていた留学生の何人かが感涙して声が出なくなったのが見て取れました。 お互いが通じ合った、と感じたようです。日本の若者と中国四川の子供たちの心と心が解け合った瞬間(心一)でもありました。 この思いがけない光景に、参加した日本人も中国人も、みんな凍りついたように立ちすくみました。 動いて見えたのは、報道などのカメラマンの動きだけでした。 日本人も中国人も感動の世界で溶け合っていたようでした。 歌声が遠い世界で聞こえているようでした。

 「中国手話同好会・留学生支部」の10名は、このほか、中国手話で自己紹介や、赤い法被を来て日本の民謡「ソーラン節」などを披露しました。

 被災地の聾唖の子供たちから、「感恩的心」という手話歌が披露され、懸命に手話をする子供たちの元気な姿に、日本の留学生たちは逆に元気を貰い、感謝の気持ちでいっぱいになった、と話していました。

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 日本の協賛企業からは画用紙とクレヨンが提供され、子供たちと絵をかく時間を作りました。被災した子供たちが描いたのは、ほとんどが地震で失った両親や家などの絵でした。 これらの絵の展示会が日本で開催されました。

 主催者を代表し「国際交流基金・北京日本文化センタ」の所長(当時)の私は、中国手話で挨拶: 「今、世界は未曾有の経済危機に直面しています。みなさんも前代未聞の大災害に遭遇しました。 これは天が我々に与えた試練なのです。 この困難を克服するのは我々の使命です。楽をして得られる快楽はありません。努力してこそ本当の勇気と幸福が手に入ります。最後まであきらめないで一緒にがんばりましょう」<原文訳>。

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(2) 「第二回」は、「上海日本国総領事館」主催の「南京ジャパンウイーク」に合わせて行われました。 主催は、その年に北京大学に留学中の日本の留学生たちが結成した「中国手話同好会・留学生支部」です。リーダは前の活動のメンバーです。 「南京市人民対外友好協会」の協力で、2010年3月に南京市聾唖学校で交流会を実施しました。日本を代表し、上海日本総領事の横井総領事(当時)が出席されました。

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 その活動は中国のTVや新聞など多くのメディアに報道され、また日本の新聞各社からも取材を受けました。 <動画参照:「南京テレビ」>

 尚、訪問した聾唖学校は、江蘇省南京市立の聾唖学校で、大学進学者向けの教育を行う高等普通科課程を1992年に新設しましたが、既存の校舎は既に満杯で教室が不足していたため、敷地内に校舎を増設する計画を策定しました。この計画の費用の一部に対し日本のODA供与が行われました。 ODA被供与団体は、南京市聾人学校で、ODA供与額は5万米ドル(増設費の総額は約60万元)。 署名式は1994年2月24日に行われ、日本側は「上海日本国総領事館」の小林二郎総領事(当時)が出席しました。
第二回では、南京側の主催者の挨拶で「この恩は今でも忘れない」と感謝の言葉がありました。 この活動に参加した日本新聞記者の方から「日中関係は日本から、という言葉があります、誰でも良いことはできるが継続することは難しいです」と言われました。 この活動が10年間、継続できたのはそのおかげです。

(3)  第三回は、早稲田大学の留学生が、「中国の聾唖者と日本の一般大学生の交流」という視点で、日中友好の懸け橋となることを目的に、2011年3月に、ボランティア・グループ・「日中学生交流会」を結成しました。 しかし、東日本大地震が発生し、実施が危ぶまれましたが、有識者らが教育的見地からも大きな意義があり中止すべきではない、との意見で6月4日に実施の運びとなりました。 主催はこの「日中学生手話交流会」のほか、「南京市人民対外友好協会」、「南京聾唖学校」、 そして共催として「国際交流基金・日中交流センタ」が中国に展開中の「中日交流の窓/ふれあいの場」の一つ、「南京ふれあいの場」が参加しました。
また、「日中学生交流会」は6月21日に「ハルピンふれあい場」でも演技を披露したり、日中の学生交流に参加して日中青少年交流活動に貢献しました。

(4) 「第四回」の2012年は、早稲田大学の留学生12名が、「日中学生交流会」・「北京チーム」を結成して実施されました。南京聾唖学校は、これまでの旧校舎が解体され、耐震校舎に生まれ変わる新築工事中で、交流活動は「南京工業技術学院」の体育館で5月19日に行われました。 早稲田大学の留学生一人のご両親が聾唖者であるCODA(Children of Deaf Adults)でした。 彼を見た聾唖の学生達から感動の拍手が起こりました。彼らは将来、彼のような子供を育てたい、と大きな希望を膨らませたことでしょう。 この活動は「江蘇テレビ」などで大々的に放映されました。 第四回は「日中国交正常化40周年記念事業」と認定されました。 (動画参照:江蘇テレビ)

(5) 第五回は2013年5月19日に、「北京チーム」15名が南京で交流しました。「南京市聾人学校」は耐震設計で見違えるほどの立派な校舎に生まれ変わっていました。活動はその新築の体育館での披露となりました。音の聞こえない生徒たちが先生の手話合図を見ながら一糸乱れぬ団体演技を披露してくれました。最後は「陽光總在風雨後」を日中の学生が一緒に手話で歌い、参加者の涙を誘いました。
第五回からは「国際交流基金北京日本文化センタ」に代わり、「早稲田大学北京教育研究センタ」から資金面でご支援を頂くことができ、継続することができました。

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<第五回のTシャツ>

(6) 「第六回」は2014年5月に実施されました。この「北京チーム」は過去最多の16名となりました。 3人の学生が日本と中国の混血児でした。更に韓国人学生が1名参加しました。 全員、日中友好に貢献したい、と参加してくれたのです。 南京聾人学校では、AKB48の リーダの記事が雑誌「人民中国」2014年8月号(写真はリーダと手話指導の「楊光遠」老師)が掲載されました。

(7) 第七回は全員女子学生で、参加人数は6名と最少となりました。 「ソーラン節」は迫力に欠けるのでは、と全員浴衣姿の盆踊りにしました。 これが受けて大喝采でした。特に「老人ホーム」では大変喜ばれました。 尚、「北京チーム」は活動後に、北京市の「北京第三聾唖学校」を訪問しました。 ここでは更に小さい子供も多く、留学生たちが披露したアニメコスプレは大好評でした。聾唖学校からは、全員が聾唖の女子生徒の踊りもが素晴らしく、忘れられない交流となりました。

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<北京第三聾唖学校での交流活動>

(8) 「第八回」のリーダは広島原爆被災3世でした。 おりしもアメリカのオバマ大統領が広島を訪問し鶴を送り被災者をハグした、と中国の新聞でも報道されました。この交流活動では、日本の若者が南京事件の被災者とハグし、更に千羽鶴を送っているのです。活動後に早稲田大学北京事務所で行われた報告会には、北京稲門会会長(当時)の「孫暁燕」さま(故・孫兵化の実娘)や人民中国の「王衆一」編集長も駆けつけ、激励していただきました。 下記CRI北京国際放送局で報告会の様子や皆さんの生の声を聴けます。 <CRI:http://www.ximalaya.com/40727768/sound/17364583>

(9) 「第九回」は、早稲田大学のほか、同志社大学、 慶応義塾大学、そして中央大学、そして名古屋大学と大阪大学から11名が参加しました。 学生たちは毎年の恒例となった「中国手話を使って自己紹介」や中国歌を披露、また日本民謡「ソーラン節」をハッピ衣装で踊り会場を沸かせました。 参加した南京市の大学生が踊りを披露してくれました。プログラムの最後には、全員が中国手話で「陽光総在風雨後」を演じ、参観者の涙を誘いました。

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(10) 2018年の第十回は目標としていた10回目となる節目の交流事業ができました。

 それまで途中で何度か挫折しそうな年もありましたが、関係者のご支援で10年間継続できたことに感謝したいと思います。この第10回は「日中平和友好条約締結40周年記念事業」に認定され、改めて「在上海日本国総領事館」後援の名義も付与されました。 この南京には日本企業が進出しています。 「南京日本商工クラブ」を結成して頑張っています。 今回は特別に「共催」として参加し、全面支援を頂きました。

 この第十回は早稲田大学のほか、同志社大学、大阪大学、筑波大学、東京外語大学、そして名古屋大学から10名が参加しました。 この中で日中のハーフはリーダ副リーダを含めて4名になりました。彼らは本当に日本と中国が仲良く暮らせる事を夢見て、将来日中の懸け橋として頑張ってくれると信じます。 南京大学の手話同好会のメンバが手話歌を披露してくれました。 プログラムの最後には、恒例となった「陽光総在風雨後」を楊老師の指揮で演じました。 参加した学生が多すぎて列が円陣になり、全体写真が撮れないほどでした。 午前中の交流活動後にも日中の学生達は日本の盆踊りを一緒に踊ったりして交流し、別れを惜しんでいました。

3. 活動資金は、中国に進出している日本企業の協賛金
 この交流事業は、中国進出の日本企業の協賛金で賄われています。 特に、ご協賛いただいた日本企業で働く中国職員から高い評価をいただいています。 曰く、「日本の留学生が中国の手話を勉強し中国の障がい者と交流する、しかも日中の歴史を直接学ぶため南京市での交流を選択したことを評価します。将来を国を担うことになる彼らはきっと、相手の立場で物事を考え、お互いに分かり合い、尊重し合える関係を築くことでしょう。 これこそが今の社会に求められている事です。 自分が働いている日本企業が協賛している事に誇りを感じます」と、エールをいただいきました。 日本の企業で働く中国の職員は、心から日中友好を願い、この交流活動が永遠に継続してほしいと願っているのです。

 これまでご支援いただいた協賛企業は、OMRONさま、三菱UFJ証券さま、コクヨさま、カシオさま、NECさま、CANONさま、東京海上日動火災保険(中国)有限公司さま、北京和僑会、TOYOTAさま、そして三菱商事(中国)有限公司さまです。 特に三菱商事さまには第二回からご協賛いただき、資金面で困難な時期には全面的ご支援を頂きました。 ここで心より御礼を申しあげます。
個人寄付では、「第一回」のリーダの中山さん、早稲田大学の大谷さん、北京市大地法律事務所の熊琳さん、そして第十回まで7年間連続して寄付を頂いた早稲田大学の向虎さんです。 ご支援を頂いた皆様に対し衷心より感謝申し上げます。

4.「老人ホーム」と南京大虐殺記念館」の訪問

(1) 「老人ホームの慰問」

 2009年に始まった「日中学生手話交流」は次の年、南京で行われました。 更に「南京市人民対外友好協会」の協力で「第三回」からは「老人ホーム」の慰問が実現しました。 初めて「老人ホーム」を慰問した時、演技の開始直後に数人が席を立ち去りました。「日本人には会いたくない」と言っていたそうです。 80歳とすると南京事件当時は5歳くらいで、家族や友人を失うなど辛い経験があれば無理もないことでしょう。 一方、孫のような日本の若者が一生懸命に演じる姿を見ていた何人かの老人が、しきりに涙を拭っていました。 演技が終わった後、学生達はけなげにも老人たちの中に入り、流ちょうな中国語で話しかけると笑顔で答えてくれました。その後の活動では、この「老人ホームの」慰問が定例となりました。

 第八回の時に、「老人ホーム」へ向かうバスの中で、一人の女学生が「訪問するのが怖い」とつぶやきました。私はそれを聞いて、日本の新聞記者に「私は学生たちに踏み絵をさせているよう気がしてならない。来年からは慰問の強制はしないことにする」と言いました。 その記者は「それではこの交流事業は話題性に乏しくなるのでは?」と。 でも言いました私は「これからは青少年が国を背負っていく。彼らが自分達の判断で行動して学習しないと力がつかないのでは。先人達が、ああしろ、こうしろというのでは何時まで一前にならないと思う」と。 <参照:添付資料2.朝日新>

 その後の第九回と第十回の留学生たちは、自ら「老人ホーム」の慰問を選択しました。自ら、南京事件を体現した世代の老人たちと実際に交流して生の話を聞きたい、との思いでしょう。

 第九回「北京チーム」のリーダが発信したブログを見て、日本企業で働く中国職員が感想を寄せてきました。 曰く、「内心受到震撼」と表現しました。彼女は、日本の若者が南京事件で親兄弟を殺されたであろう年代の老人と手を取り合って談笑する姿に感動したようです。 そして、「日本人は南京では重苦しい固い感じになるのに、今の若い日本人はそんなことはないよう。 お婆さんと日本人留学生の手の繋ぎは、民間で戦争の憎しみはすでに解消したことを示しているのでは。(戦争が)二度と起こらいように皆様がんばっていますね」と。

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 第十回では最高年齢の93歳のお年寄りがいました。最後は抱きあって泣いている留学生もいました。 日本の若者は南京事件の被災者との抱き合いながらの交流から何を感じたのでしょうか。 最後には老人達は、来年もぜひ来てほしい、と別れを惜しんでいました。

(2).「南京大虐殺記念館」の訪問

 「第五回」から南京大虐殺記念館を訪問することになりました。 日本から来る学生がこの記念館を訪問すると多くの場合、「ショックを受けた、もっと他の日本人に知ってもらいたい」などのステレオタイプの意見が大半です。 しかし、この訪問は、招待されていて、日本の青少年の意見を聞いてくれる交流の会議が設定されているのです。 記念館に着くとまず記念館を見学後、特別室で館長らと対面します。 そこで留学生たちは記念館で改善すべき事を流暢な中国語で提案するのです。 更に、中国の留学生活の経験から、日中友好のために役立つ建設的な改善策をも提案します。 この純粋な若者の意見は中国側も真摯に受け止めて対応してくれました。

 例えば、 第五回では留学生から「日中交流促進のためには中国のTVで放映されている日中戦争映画の放映は止めるべきでは?」 これに対し、館長から「中国は前向きに検討中です。本日の新聞報道によると、今後歪んだ内容の新作映画作品の認定はしないことになった、これから低俗な日本軍人の映画は許可しないことにした」、と、その報道新聞を見せてくれました。 また、第七回の学生から 「学歴のない小学低学年の団体が見学していたが、これでは平和と友好を謳う記念館の主旨に反するのでは?」 。 その後の2018年にはまだ団体の生徒たちがまだ見うけられました。 また、「この記念館は日中平和を強調すると謳っているが、その平和を強調した展示は最後のほうで、ほとんどの見学者が素通りしている、展示方法を改善すべきでは」。

5.「手話」と「異文化交流」について

 今世界は、偏狭な愛国主義が社会的弱者をあおって、他者を排除し自己中心的な政権運営をする、いわゆるポピュリズムの台頭で民主主義が脅かされつつあります。まさに現代社会の課題となっています。我々はややもすると無意識に社会的弱者を無視しているかも知れません。これからは社会的弱者を排除するのはなく交流して幸せにすることの努力、そのことにより健常者も幸せになる、あえて弱者の“言語”を勉強してその社会に入り、弱者と交流し寄り添うことが必要なのではないでしょうか。 手話を勉強し聾唖者と交流する意義はここにあると思います。

 日本語の手話は、英語はSign language、中国では「言語」と言い、言語の 一種です。「手話」は言語と同じように人と人のコミュニケーションの道具の一種ですが、その形は伝統、習慣、言語、そして日常的に使う動作など、生活や文化と密接な関係を持ちます。その意味では、手話は重要な文化要素の一つであります。つまり手話を学ぶことはそれを用いている国または地域の文化を学ぶことです。つまり異国の手話を学ぶことは「異文化交流」そのものといえるのです。さらに「異文化交流」を体験すると異なる価値観が融合し新しい価値観が生まれてきます。異なる価値観が融合して新しい価値観を生み出していく、まるで核融合が核分裂を起こすような無限の可能性を創出していくのです。そして直面する課題に全く新しい視点での解決策を見出し、新しい社会を創造し、ひいては国が発展し繁栄するのは歴史的に見ても明らかです。

6.中国や日本の報道メディア

 この交流事業は多くのメディアの取材や報道に取り上げているのが特徴です。特に中国では多くの報道各社に取り上げられました。
中国:新華社、新華報業网、環球時報、人民中国、南京日報、南京テレビ、江蘇教育電視台、南京科教、中国新聞网、中華文化傳媒网、東方网、百度、南京晨報、北京国際放送局CRI、南報网、人民网/日本語版、中華网/新聞中心、中華网/視頻、現代快報、中文国際、新聞中心中江教育网、その他Whenever、Concierge、各社。

 第十回の活動では、在中国日本大使館のSNS,さらにCRIが事前の「学生募集」、「キックオフ大会」、そして5月の南京で密着取材を頂き、動画が配信されました。

 日本:NHK・WEBニュース、NHK手話ニュース、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、Yahoo.Japan、RecordCnina、Exsiteニュース、の報道各社

7.「実行委員会」 (「二アール」記念碑で8月に開催)

 毎年8月には「実行委員会」である「湘南合同会議」が開催されてきました。 「北京チーム」のほか、先輩達が結成する「東京チーム」や協賛企業などの関係者が集まり、活動報告や今後の計画、そして課題などを討議されます。 2018年8月4日(15時)の第十回となる湘南合同会議は、第十回の活動報告に加え、こまでの総括をする重要な会議となる予定です。 場所は、神奈川県藤沢市鵠沼海岸にある中国国歌作曲者「聶耳」(二アール)の記念碑の近くです。

 *ここでこの「聶耳」の記念碑のことを少し述べます。 1912年 に雲南省・昆明に生まれた「聶耳」は幼少より絶対音感をもった音楽の天才と言われていました。

 1935年4月18日、東京に着いた「聶耳」が5月に完成させた曲を上海に郵送し、その後歌詞が付けられ、中國国歌の『義勇軍行進曲 』となりました。

 不幸にも「聶耳」は1935 年7月17日、藤沢市の鵠沼海岸で遊泳中の波にさらわれ、24歳で短い生涯を閉じました。 2年後に遺骨は雲南省・昆明市に送られ、西山美人峰に葬られました。 藤沢市は「聶耳」の記念碑を建立し、毎年命日の 7月17日に「聶耳記念碑・碑前祭」 を行っています。この記念碑は一度台風で流されましたが、再建され碑前祭は今日まで継続されています。

 2016年9月の言論NPOの東京会議に参加した「雲南省人民政府新聞弁公室」の主任は、「藤沢市の聶耳記念碑は日中友好のシンボルだ、この話は決して忘れない」、と話してくれました。

8.皆様のご支援とご協力に心より感謝します

 この活動の実施に当たり、「国際交流基金・北京ン本文化センタ」、「四川省人民対外友好協会」、「南京市人民対外友好協会」、「南京聾人学校」、そして「早稲田大学・北京教育研究センタ」の関係の皆様には、言葉に表せないほどのご支援とご協力をいただきました。 また、「北京大学」そして「南京日本商工クラブ」には大変お世話になりました。そして「日本国外務省」、「在中国日本国大使館」、「在上海日本国総領事館」や「在重慶日本国総領事館」には力強いご支援がありました。 そのほか「南京大学手話クラブ」、「北京日本人学術交流会」など多くの皆様のご協力も頂きました。

 *「南京市人民対外友好協会」の外事弁公室の処長「孫曼」さまには、第二回から第十回まで、南京での活動では本当にお世話になりました。スケジュールの調整など南京でのスケジュールは全てご担当いただき、行き届いた気配りのおかげで継続ができたのです。 なんとお礼を言って良いか判りません。「北京チーム」が到着するときは必ず出迎えてくれ、北京チームの留学生たちに「南京にようこそ・・・」と挨拶される声はいつまでも忘れないでしょう。

 2011年11月に開催された日本石岡市での「紫金草合唱団」(参照:添付資料1.)公演会には、孫曼処長は南京から参加され「アコーディオン」を演奏しました。
第九回の歓迎食事会の席上で、孫曼処長が「初めて日本の名古屋大学に留学中にホームステイでお世話になった林さんが亡くなりました」と言って絶句され涙を流しました。私もついもらい泣きした事を昨日のことのように思い出します。

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<南京市対外人民友好協会「孫曼」処長(左)>

*日本の留学生に中国手話を指導いただいた先生は、「北京第三聾唖学校」の「楊光遠」主任です。 1999年に、OMRONの中国の社会貢献活動の「中国教育基金」の実施プログラムの一つで、中国手話教材VCD(家庭版)と(社会版)を制作した時に、手話指導教師として指揮を執っていただきました。 このCDは中国では初めての動画による手話教材で(家庭版)は家族や友人が、そして(社会版)は、公安局、病院、商店、交通機関などで働く職員が中国手話を勉強するために作られました。

 「第一回」のチームは「中国手話同好会・留学生支部」を結成し、「中国手話同好会」の指導教師であった「楊老師」に中国手話の指導をお願いしたのが始まりで、この活動の第十回まで継続して指導をしていただきました。 第ニ回、第六回と第十回に南京市での交流活動に参加していただきました。 第十回では、プログラム最後の全員合唱曲「太陽光総在風雨以后」では、中央で指揮を執っていただきました。

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<「楊光遠」老師(右)2016年10月北京四川料理店にて>

9.最後に

 2009年の調査で、中国に進出した日本企業の「社会貢献活動(CSR活動)」は1000件以上と報告されました。(国際交流基金 調査 2005年、2007年、2009年) この活動を中国各地で紹介した時は、参加者から「初めて知った、感動した」の意見が多くありました。 この数十年間の中国における民間の日本企業が自ら実施している社会貢献活動(CSR)は特筆すべきもので、日本の特徴の一つなのです。 この交流活動もまさにそのCSRのご支援の賜物です。

 第二次世界大戦当時の歴史の勉強が足りないと、中国の若者にそこを突かれると、涙ながらに議論できなく打ち負かされる姿をよく目にします。 近代史で日中戦争の悲劇を語るなら、もちろん比較はできませんが、中国での日本企業の「社会貢献活動」を勉強して、それをもっと主張すべきではないでしょうか。

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<日本企業の中国におけるCSR活動領域 2009年調査>

 第十回の北京チームのリーダは、以前に南京市で5歳の子が、お母さんに「あの人も日本人だから人を殺すの?」と聞いてショックを覚えたそうです。それでもあえてこの活動に参加しました。見学中の中国人の冷たい視線にじっと耐えて留学生たちは見学しました。

 ある館長が「最近、ここに来る日本人は白髪の老人ばかり、日本の若者は来ません」と言って、留学生が日中友好改善への提案をやさしく聞いてくれるのが何よりの救いでした。 記念館は今後どのように変わっていくのでしょうか。

 そして、最後に「老人ホーム」のお年寄りに「過去にとらわれるな、日中は永遠に平和だ、未来は君たちに任せたぞ、がんばれ」と言って笑顔で話しかけてくれ、泣きながら抱きあう日本の若者の姿は印象的でした。

 中国に留学する日本の学生は年々減少しています。 その中で日中関係を改善しようと勇気を奮ってこの活動に参加してくれました。 これまで10回の活動で参加した学生は総勢112名となります。 毎回、報告書のほか、全員感想文を書きました。 ご一読をお勧めします。

 1941年12月に日本は米国と戦争に突入しました。私はその3か月前に生まれました。 私の父親も戦死しました。 戦後の新生小学校の頃は、貧しくてぼろを来た友達と芋をがじって一生懸命に勉学に励んだことを覚えています。 戦争の傷跡は日中双方の国民に多大の悲劇をもたらしました。 現在、日中間には複雑で容易に解決できない課題がたくさんあります。 でもこのまま放置するわけにはいきません。 将来日本と中国がもっと仲良く暮らせるよう、これからの青少年には頑張ってほしいと心より希望します。

 希望といえば、中国の作家「魯迅」の小説「故郷」を思い出します。 これは「魯迅」が1921年1月に発表した短編小説集の一つで、日中両国の中学校の国語の教科書に出て来るのです。 ノーベル文学賞作家の大江健三郎先生は、12歳の時にお母さんから貰った中国作家「魯迅」の小説「故郷」を読んで、その一節を書き留めた、と話されたそうです。 その文章はこの「故郷」の最後の一段です。この交流活動が、将来「多くの人が歩く太い道」となる事を祈って原文を紹介します。

 「・・・希望本是无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路」<・・・思うに希望とは、もともとあるともいえぬし,無いともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道は無い。歩く人が多くなればそれが道になるのだ。―石川好・訳>

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<大江先生と/北京長富宮ホテルの講演会 2016年9月>

*南京聾人学校での私の手話スピーチの締めの言葉を紹介します。
「最后,我衷心地祝愿大家在将来能够实现自己的梦想。 谢谢大家」

2018年5月
日中学生手話交流会 実行委員長 藤田安彦
<以上>

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