第41 回 生涯を中日友好に捧げた廖承志氏

2018-04-27 13:10  CRI

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 中日国交正常化45周年特別企画 「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」。

 今年は中日国交正常化45周年です。この記念すべき年を迎えるに当たり、中国国際放送局は特別企画「国交正常化45年の歩み―あの日、その時」を毎週土曜日にお送りしています。40回目となる今回は、生涯を中日友好に捧げた廖承志についてご紹介します。お相手は任春生です。

 生涯を中日友好に捧げた廖承志氏

 廖承志は、中国の政治家で国民党の重鎮、廖仲凱と女性運動指導者、何香凝の息子として1908年、日本の東京で生まれました。また、1925年には早稲田大学へ留学のために再び日本を訪れています。そして1949年、廖承志は中国共産党中央対外連絡部部長に就任し、長期にわたって中日関係の仕事を担うようになりました。

 1953年1月、中日両国は日本人居留民の帰国について取り決めを結びました。その内容は、日本は日本人居留民の帰国のために客船を用意する一方、責任を持って帰国を希望する在日中国人を中国に送り返すというものでした。日本人居留民が中国を離れるとき、在日中国人が中国に到着したときのどちらも、廖承志は常に見送り、出迎えをしていました。

 1954年10月、当時の衛生省長官の李徳全とともに廖承志は中国赤十字会代表団を率いて訪日しました。これは新中国の建国後、最初に派遣された訪日代表団で、中日民間交流の扉を開く訪問でした。

 1962年11月9日、廖承志と高碕達之助は『中日長期総合貿易覚書(LT貿易覚書)』に調印し、1964年4月20日には中日両国の貿易事務所の設置と常駐記者の交換に関する覚書に調印し、中日関係は新しい発展段階に入りました。

 1972年9月25日、田中角栄元総理が中国を訪問した際、廖承志は病に伏せていたにもかかわらず、その会談に参加しました。そして、9月29日、『中日共同声明』が調印され、中日両国の国交正常化が実現しました。歴史的な出来事の裏には廖承志の多大な貢献がありました。

 1973年4月、中日友好協会代表団を率いて訪日した廖承志は、田中角栄総理のために特別なお土産、大山桜の葉を用意していました。廖氏は田中総理に、「この葉は田中総理が中日国交正常化を祝うために中国人民に贈った大山桜の木から摘み取ったものです。大山桜はすでに北京に根を下ろし、すくすくと育っています。田中総理のご厚意に感謝し、記念にしていただくため持参しました」と伝えました。

 中日平和友好条約締結のための会談に廖承志はすべての力を注ぎ、1978年8月、中日両国はこの条約に調印しました。また、同じ年の10月、国務院副総理の鄧小平は日本を訪問した際には、中日平和友好条約批准書の交換式典に廖承志を同席させました。

 1979年5月9日、廖承志を団長とする中日友好の船「明華号」が日本を訪れ、熱烈な歓迎を受けました。多くの人はこの船を「廖公の船」と呼び、一ヶ月近い訪問期間に、「廖公の船」は中国の船としては史上前例のないと言ってよい日本列島一周の航海を行いました。廖承志はそのときの気持ちを、「乗船繞一周 友好達千秋(船に乗って一周し、友好は千年に)」と述べています。

 1983年6月10日、新たな時代の中国のために尽力してきた廖承志は病気のため亡くなりました。日本の鈴木善幸(すずき ぜんこう)元総理は、「廖承志氏と先に亡くなられた周恩来氏は、日本国民の心の中に永遠に銘記されている。両氏は日中両国の友好事業に献身し卓越した人物である」と、廖承志氏の死を悼みました。

 続いては、廖承志と高碕達之助が心血を注いだLT貿易、つまり、中日両国の正式な貿易関係の前身についてお話します。

 新中国の成立から1960年代初頭まで、中日両国の関係は貿易、文化交流などの面で大きな進展を見せましたが、この時期、中日両国の友好は民間主導の形で促進されていました。

 1959年10月、周恩来総理の招聘で、日本の政治家、松村謙三が訪中しました。周恩来総理は松村謙三との会見で、「中日両国は『平和共存五原則』を基礎に、互いに友好的に付き合うべきで、決して敵視し合ってはならない。中日両国は徐々に国交を回復するようにしなければならないと」繰り返し語りました。

 松村謙三は帰国後、高碕達之助に1960年10月の訪中を促しました。高碕達之助は元通産大臣で、1940年からの5年間、中国の東北部で過ごしていたことがあります。中国と浅からぬ縁を持つ高碕氏は、1955年に日本政府代表団を率いてバンドン会議に出席した際にも、周恩来総理と会談しました。それから5年後、高碕達之助の訪中が実現しました。この時、周恩来、陳毅、廖承志らは、松村氏の訪中の時と同様、高碕氏と数回にわたり長時間の会談を行いました。

 1962年9月、松村謙三は再び北京を訪問しました。松村謙三のこの訪問は大きな成果を収めることになりました。双方は長時間に及ぶ会談を三度も行い、周恩来総理は松村氏と中日貿易の拡大について四つの内容を確定し、高碕達之助が再び訪中して、廖承志と具体的な案について協議することに同意しました。この方案こそが後に有名となる「LT覚書貿易」です。

 1962年10月28日、22社の企業のトップを含む高碕達之助一行42人が北京に到着しました。基本的な内容は1カ月前に松村謙三が訪中したときに決まっていたため、会談はスムーズに行われ、貿易文書について双方は合意に達しました。11月9日、廖承志と高碕達之助は『中日長期総合貿易に関する覚書』に調印しました。双方は長期的、総合的なバーター貿易の発展に同意し、貿易の細かな点についても合意しました。また、日常の事務を処理するため、中国側は廖承志事務所、日本側は高碕達之助事務所を設立しました。両国はそれぞれ相手国に連絡事務所を置くことに同意し、このチャンネルを通じて両国記者の交換も実現しました。覚書貿易の取引契約は両国代表の廖(LIAO)と高碕(TAKASAKI))のイニシャルをとって「LT覚書貿易」と呼ばれました。

 1964年8月13日、廖承志東京駐在事務所が開設され、同じ年の9月29日には中国の駐日記者が東京に到着しました。これ以後、中日両国の貿易関係は半官半民の発展段階に入り、1972年の国交正常化へと向かうことになります。

中日国交正常化45周年記念特別番組「国交正常化45年の歩み―あの日その時」。今日は、生涯を中日友好に捧げた中国政治家の廖承志をご紹介しました。お相手は任春生でした。

ラジオ番組
10月29日放送分
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