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海内無双、「裘派」芸術 (九)

2009-04-29 09:56:07     cri    

 1933年、18歳になった裘盛戎が「出科」(「科班」を卒業)するころ、父親の裘桂仙は亡くなりました。これは裘盛戎にとって、生涯で初めての悲しみでした。裘盛戎の子供の時代から、ずっと父親の指導で成長し、教わったしぐさや歌いなどが、すでに裘盛戎の身に烙印を押されているように、一生も忘れられないものでした。若い裘盛戎にとって、父親はまるで道を照らす灯台のような存在であり、自分を京劇芸術の世界に導きました。自分が正式に舞台で才能を発揮しようとしている時、かけがえのない父親が急に亡くなり、裘盛戎はどうしたらいいか分からなくなってしまいました。

 気持ちがどうしても落ち着かないため、京劇の俳優にとって最も恐がることが起こりました。裘盛戎が「倒倉」(声がきれいに出なくなる)してしまいました。これは歌いを主としての「銅錘花臉」にとっては、致命的な打撃とも言えます。暮らしに困っているので、いくら自尊の念が強い裘盛戎も、のどをゆっくりと休めることができなく、歯を食いしばって公演を続けて、しぐさや立ち回りを主とする演目を演じ、脇役さえつとめて、なんと生活を維持していました。

 「出科」してからかなり長い間に、裘盛戎は歌えませんでしたが、演技が完璧なので、上海と北京でたくさんの有名な俳優と共に公演しました。例えば、「四大名旦」と呼ばれる梅蘭芳、程硯秋、尚小雲、荀慧生や「四大須生」と呼ばれる譚富英、馬連良、楊宝森、奚嘯伯、また「四小名旦」の李世芳、毛世来、張君秋、宋徳珠、そして「武生の泰斗」の楊小楼や裘盛戎が大好きだった「麒麟童」周信芳などです。この時期の裘盛戎は意気消沈の状態でしたが、一方、彼にとって、最もな勉強するチャンスであり、裘派の形成の基礎を築きました。

 「浄」の役者として、裘盛戎はその頃の有名な先輩たちに強く関心を持っていました。(楊)

つづく

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