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海内無双、「裘派」芸術 (六)

2009-03-18 10:31:09     cri    

 裘盛戎の裘派芸術と言えば、1人の役者をあげなければなりません。上海の京劇俳優・麒派老生の創始者である麒麟童・周信芳です。何故というと、裘盛戎の裘派芸術の初期は、麒派をある程度参考にして、だんだん「裘派」の原形が現れたわけです。成熟した後の裘盛戎は人物を描く時、相変わらず周信芳の演じ方を参考にしました。

  

 麒麟童・周信芳は1895年1月、江蘇省淮陰市で生まれ、両親も京劇の俳優です。周信芳は6歳から京劇の稽古を始め、7歳に初舞台を踏んだので、「七齢童」と呼ばれ、1907年上海で公演した時、中国語で同じ発音の「麒麟童」に名を変えました。したがって、彼が創始した流派は「麒派」と呼ばれていました。周信芳の役柄は「老生」ですが、「銅錘花臉」の包拯や「紅生」の関羽などのほかの役柄に属する人物も上手く演じられるため、「国士無双」と呼ばれていました。

 

 こんなに素晴しい俳優の公演は少年の裘盛戎と袁世海にとって、見なければいられないものなので、2人は策を立てました。それは、昼に公演がある場合、公演が終わったらこっそりと劇場から逃げ出し、夜に公演がある場合、公演が始まる前にしばらく逃げ出して周信芳の公演している劇場に行きます。もし先生が聞くとしたら、弟弟子の李世霖は彼たちを援護します。八方手を尽くして、裘盛戎と袁世海はやっと周信芳の公演が見られるようになりました。

 見れば見るほど病みつきになり、裘盛戎は「科班」の寮に戻ると、皆に周信芳の真似をして実演します。ある日、裘盛戎が庭で周信芳の真似をしているところに、先生が来ました。

 「裘盛戎、誰の真似をしているの?」

 「麒麟童……」

 「誰から出かける許可をもらったの?」

 「……」

 「誰と一緒に行ってきたの?」

 「……」

 「手を出せ!」と、先生は金属製の細長い板で裘盛戎の掌をうちながら、言います。「言わなくても知ってる!さっさと言え!」

 「まだ袁三児……」(袁世海のあだ名)

 「袁世海、来い!」

 こうして、2人の少年がみんなの前で殴られました。その後、袁世海は裘盛戎に「なんで僕を売ったの」という文句を言いましたが、裘盛戎は「先生は言わなくても知ってると言ったから」と答えたため、「裘バカ」というあだなでみんなに呼ばれていました。

 麒麟童・周信芳の公演を見に行くために殴られたことがありましたが、素晴しい演技でひどい罰を逃されたこともありました。(楊)

つづく

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