会員登録

海内無双、「裘派」芸術 (八)

2009-04-16 13:44:24     cri    

 そのころの劇団には「飽吹餓唱」(満腹で楽器を吹き、ひもじくて歌う)というルールがあるため、いくら演目が多くても昼間に一食、公演が終わったらまた夜食を食べるきまりでした。しかし、今回の「堂会」(お祝いのために個人の家に芸人を招いて催す演芸会)の演目はあまり多すぎて、深夜まで続いているので、裘盛戎は空腹がに耐えられなくなり、こっそりと外へ逃げました。あちこち回って、腹一杯になっててから「堂会」の楽屋に戻りました。誰も気づいていなかったと思っていましたが、楽屋に入ったとたん、先生の郝堯倫に気づかれてしまいました。満面に朱を注いだ郝堯倫先生が金属製の細長い板を持って、「伏せろ!」と怒鳴りながら裘盛戎を叩こうとしているところを見た蕭長華先生は「そんなに怒らないで、公演は何よりも重要で、何があっても公演が終わったらしましょう。今日の寿老人はわざと裘盛戎を名指したので、まず公演をやらせましょう」と大目に見るようにいいました。

 この時、裘盛戎は今夜の公演が完璧でなければ責任を負わなければならないと知ったため、一生懸命に演じました。ある老人は興奮して、「野郎、なんじの父によく似ているんじゃ」と叫びました。そして、裘盛戎の素晴しいしぐさと歌いにより、割れるような拍手の音がしばし鳴り止まず、寿老人の丁おばあさんは喜んで笑いが止まりませんでした。

 「この子は素晴しい!ほうびで一千個の肉饅頭を与えよう」と、言いました。

 優れた演技によって、裘盛戎はひどい罰を逃れました。

 1933年、18歳になった裘盛戎は「出科」(「科班」を卒業する)しました。七年の「科班」の勉強で、裘盛戎は完璧な芸を身につけましたが、誰も思いつかなかったつらい生活が始まりました。「科班」を卒業する際、裘盛戎の父親、一代の大家である裘桂仙は52歳で亡くなりました。父親が亡くなったことを知らせられた裘盛戎は山東省で公演して、最後に父親と会うことができませんでした。(楊)

つづく

関連ニュース
写真トピックス
コメント
今週の番組
今日熱点
快楽学唱中文歌
特集ダイジェスト
LINKS