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海内無双、「裘派」芸術 (三)

2009-02-03 10:35:14     cri    

 裘盛戎は8歳の時、毎日父親の裘桂仙と一緒に発声練習をしたり、立ち回りの基礎的な修業をしたりし始めました。裘盛戎の思い出話には次のように書いてあります。「まだ薄暗いうちに、父は僕を庭で発声練習させ、発声練習の後はセリフの練習と立ち回りの基礎的な修業だ。特別に作った上げ底の靴を履いて腿が痛くなるまで練習し、足が棒になるぐらい疲れました。」

 そのほか、演目も丁寧に教えられました。演目の解説は朝食が済んだ後すぐ始まるのです。つまり毎朝の順序は、発声練習―セリフの練習―立ち回りの基礎的な修業―朝食―演目の解説というのです。

 もし基礎的な修業は疲れるのなら、演目の解説は残酷なことだと言えます。父親の裘桂仙は演目を解説する時とても厳しくて、セリフでも歌でも一字一字正確に発音しなければならないので、たった一幕の『二進宮』は半年ほどにわたったのです。一字の発音が間違ってしまったら、裘桂仙は四角い金属製の細長い板を息子の口の中に突き、力を入れて回します。血が出ても、痛みを我慢して練習を続けるしかありませんでした。

 まさか父親として息子を可愛がらないことはありません。しかし、息子の出世を願っている裘桂仙は、「芸術は少しでも偽りがあってもならない」とよくわかって、心を鬼にして息子に勉強させました。父親の厳しすぎる指導によって、幼い裘盛戎は自分も怠けず、練習を少しずつ進めて、勉強すればするほど興味がよりわきあがり、月日のたつうちに、セリフといい、歌といい、しぐさといい、素晴しくなっていきました。

 子供のころの思い出は、父親の厳しい指導だけではありません。裘盛戎はウマが合う仲間が1人いて、その人は後の「袁派」の創始者袁世海です。1984年、もう68歳の袁世海は回想録に裘盛戎との素晴しかった少年時代を書いており、幸せがいっぱいでした。

 「僕たちは一緒に南町の遊園地に行ったり、劇場に行ったりした。そして帰り道で、見たばかりの公演について話し合い、家に着いても門の前に立って話して、また明日の会う時間と場所を約束します」

 「公演を見に行くほか、盛戎は父親の付け髭、僕は家のむちを持ってきて、空き地で有名な役者たちの真似をして、自ら勝手に公演した。近所の人々はみんな見にきても、僕たちは全然恥ずかしくなく、かえってますます盛り上がった。僕らの公演が終わる時、2人ともしょっちゅう泥だらけで、靴さえ壊れて、絶対に叱られるとわかっているが、嬉しくてたまらない。」

 これは2人の芸術家の初舞台で、ままごとに見えますが、堂に入る芸を身につけるまでの第一歩です。

 1927年、父親に4年間あまりにわたって京劇を学んだ裘盛戎はすでに12歳になって、彼の京劇人生も新たな段階を迎えてきました。(楊)

(つづく)

「裘継戎:僕にとってただ信仰ではない。」

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v 海内無双、「裘派」芸術 (二) 2009-01-15 14:52:05
v 海内無双、「裘派」芸術 (一) 2008-12-23 21:17:27
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