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海内無双、「裘派」芸術 (五)

2009-03-05 09:11:50     cri    

 昔、息子を「科班」(昔の京劇の俳優養成所)に入らせる家庭は大体つぎの2つの例があげられます。1つは赤貧洗うが如しの家庭の息子で、もう1つは梨園の名門の子孫です。「科班」は厳しいですが、学費がいらない上、子供たちの面倒を見るので、貧しい家庭にとって、これはもっともの活路です。一方、梨園の名門にとって、息子を「科班」に入れば、もっと系統立てる教育を受けられるほか、「科班」の長い年月の公演は子供たちが舞台で実践するもっともよいチャンスです。厳格な管理は子供の成長にはよいと思われています。ですが、裘盛戎が「富連成」に入って間もなく、裘桂仙はやはりこの息子が気が気でなく、自分が「富連成」の招きで奉仕の教師をしました。翌年、裘盛戎の弟・裘世戎も「富連成」に入りました。

 裘盛戎は幸運児でした。「富連成」の教師たちはすべて当時指折りの有名な役者であり、理論といい実践といい、優れている人たちでした。裘盛戎は厳しい父と先生にねんごろに教えられて、骨身を惜しまずに勉強し、7年の監獄に入れられたような「科班」の生活で、いかなる試練にも耐え得る技量を身につけました。

 12歳の裘盛戎はぐんぐん頭角を現し、毎日先輩たちと一緒に前門の辺りにある「広和楼」で公演をしており、1日2回公演することさえありました。裘盛戎は背が低いが、生まれつき声がよく通り、しかも幼い頃から父にしつけられて、しぐさといい歌いといい、まるでベテランのようで、わざわざ裘盛戎の公演を見に来る観客がだんだん増えてきました。当時の「科班」は「大切りは立ち回りの演目であり、切前は『生』と『旦』の演目」というルールがありましたが、裘盛戎の公演が数多くの観客を引き付けているため、慣例を破らざるを得なく、彼の出演する演目を大切りにしました。殊勝なことに、裘盛戎はこの一時的な業績には冷静に対応し、さらに芸を磨いていました。

 「富連成」での生活は単調で、ふだん許可を得ないと外に行くことさえできず、ほかの役者に勉強することがさらに禁止されています。ちょうどそのとき、裘盛戎の大好きな上海の京劇俳優・麒派老生の創始者である麒麟童(周信芳)が北京で公演していました。伝統的な北方の京劇と違い、周信芳を代表とした南方の京劇は歌い、しぐさのほか、舞台上の総合的な効果を重視しており、北方の観客を新鮮に感じさせました。裘盛戎と同じく、仲間の袁世海も周信芳の舞台芸術に憧れいましたが、見に行くことができず、2人の少年は焦ってどうしようもなかったところ、いい考えを思いつきました。(楊)

つづく

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