人生も日中友好も 「ハッピー」がキーワード
目指せ、両国の「お互い様」関係を
「中学、高校の時、北京放送をずっと聞いていましたよ」
インタビュー終了後、思わぬことが聞けました。
「中国好きの友人がいて、『面白いぞ』と言われましてね」
国交もなかった国からの異なる文化や感性に触れた時の感想、今も思い出すと懐かしそうに話していました。
数多くの日本人と同様、橋本さんも小さい時から、「中国というと、三国志に毛沢東、そして共産党革命」のイメージが強かったと言います。
大学卒業後、NHKで記者をしていましたが、1991年、44歳で高知県知事に出馬し当選。当時は、日本の最年少知事でした。その間、中国を初めて訪問し、とりわけ、高知県と友好関係にある安徽省や山東省にたくさん足を運びました。
乗換えの多い、高知県と安徽省のアクセスについて、「却って、行くと3~4泊もする長めの日程が組め、それだけ深く交わることができる」と苦に思ったことはないと言います。
東京生まれの東京育ちでしたが、縁もゆかりもない高知県で16年間知事を務めました。この間、高知県と安徽省との友好省県提携や、高知南と青島港との友好港提携が実現しました。
そんな橋本さんは、中日間の地方自治体同士の友好交流や将来を見据えた中日の目指すべき関係をどうとらえているのか。先月末、河野洋平前衆院議長の率いる日本国際貿易促進協会2011年度訪中団の団員として訪中した橋本大二郎さんに、北京で話を聞いてきました。
■姉妹省県、漢方薬的な交流を
――橋本さんが高知県知事在任中、高知県と安徽省との姉妹省県関係が結ばれました。
そうですね。もともと、1985年に、高知市が安徽省の蕪湖市と姉妹都市関係を結びました。それで人のネットワークができたので、県レベルで友好関係を結ぶのであれば、安徽省がよいのでは、という提案がきっかけでした。
安徽省には何度も尋ねたことがあり、最初に省都の合肥に行った時は、町中でも路上に屋台があったりしていました。それから数年経つと、それがショーウィンドーになって、さらに数年たつと、車が売られたりして、すごい発展ぶりでした。また、世界遺産の黄山にも行きました。古い松の木が霧の中にあり、昔の墨絵をみるような感じで、掛け軸の中の山水画は想像で書いた絵でないなと感心したことがあります。
――高知県と安徽省の交流をどのように振り返りますか。
高知県は日本が工業化していった時に、工業や産業面では遅れていた、経済的に弱い県です。一方の安徽省も上海などに出稼ぎに行く人が多かったりして、経済的に恵まれていない省です。安徽省からは、工業的な面での支援ができないかというご期待がありましたが、なかなかそういうご期待に十分答えることができなかった部分があります。でも、そういう中でも、高知県の刃物を作る、「穂岐山(ほきやま)」さんという会社が、安徽省に出ていった事例もあります。十数億という市場を相手に、高知県の小さな会社が日本の市場相手にしているだけではできないような仕事ができたというように、高知県にとって、プラスになる芽が育ったということもあります。
それから、高知県は森林が多い県なので、優れた森林管理の技術があります。中国もやっぱり、山をどうやって管理するかが非常に重要な課題だったと思います。そういう面で、色んなお手伝いができたと思います。
それから、高知県は書道が盛んな県ですが、安徽省も古来、墨や紙など書道の基礎になるものの名産地です。そういう意味で、文化的なつながりもあり、色んな交流ができたと思っています。
――中日間には数百組の友好省県や姉妹都市関係があるようですが、こうした地方自治体同士の交流の意義をどう見ていますか。
非常に地味なつながりではありますが、お互いに友好的な関係を結ぶ中で続く人と人とのつながりが20年、30年積み重ねられた時に、すごく効果をもたらすと思います。薬でいうと、漢方薬を飲むようなもので、西洋の薬のようにすぐに利かなくても、やはりじわじわと効ていくるのではないかと思います。
経済的な利益だけ追っかけていくと、損した得したという話にしかならないと思います。もちろん、経済のことは大切ですが、互いの関係を漢方薬的にいかに地道に続けていくか、そのことが色んな交流を生み、それがやがて経済的なつながりにもなっていくというふうに考えたほうが良いです。
(つづく)
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