人類にとって最高の宝は平和
■戦争と原爆の実態を伝えたい
――今年は、被爆して64回の夏となります。
いつも8月6日8時15分になると、あの惨状がワッと迫ってくる。気分が重くなる。だから、平和公園で行われる式典には、取材で一回だけ行ったが、それ以外、行ったことがない。思い出すから。テレビの中継を見ながら、鎮魂の思いで胸がいっぱいになります。
――主人公の少年に何故、「ゲン」と名づけましたか。
「げん」は元気の「ゲン」、人間の元(もと)の「ゲン」。平和を愛し、戦争と原爆、核兵器を否定していく、強い人間になれという思いをこめて名づけました。
ぼくは子どもの時、親父に、「麦のようなたくましい人間になれ」と教わりました。麦は寒い冬に芽を出して、霜や風雪に耐えて、まっすぐに伸びて、豊かな穂を実らせる。そして、それらすべてを奪っていく戦争と原爆には、どんなことがあっても反対しよう、と。原爆を地球上からなくしていかなくちゃいけない、そういう思いをこめました。
――「ゲン」は中沢さんご自身のことでもありますか。
まったくぼく自身です。家族構成からまわりの状況まで、全部事実です。それを漫画風に直しながら、『はだしのゲン』を描いたわけ。ゲンの戦後の生き方も、ぼくが体験したことと同じです。この本は、被爆した私と、同世代の人たちの戦後史でもある。鎮魂の思いで描きました。
作品を通して、戦争と原爆の実態が少しでも伝わることができれば、ぼくの役目が果たせると思っています。
■手塚治虫に導かれて
――そもそも、何故、漫画家になろうと思いましたか?
親父が日本画家だから、絵のことは昔から好きでした。それと、ぼくが小学校3年の時、戦後間もない頃ですが、手塚治虫さんの単行本『新宝島』が出たのです。戦前の漫画は表現が一面的だったが、『新宝島』では俯瞰から地上へのあらゆる角度から、車が走る状態を描くわけですよ。見ていると、まるで自分がその車に乗って、走っているような錯覚がする、すごい魅力があってね。
その漫画を手に入れるために、鉄くずやレンガを拾って、お金を一生懸命にためました。ついに、広島の焼け跡の中にある本屋からそれを買ってきました。もう何千回を読んだ。どこのページに、どういう台詞が入っているとか、全部分かるんです。それほど、頭に入り込んだのです。当時、画用紙を買うお金がなかったので、闇市に行って、映画のポスターを剥がし、その裏に一生懸命に模写していた。あの頃から、将来、ぼくは必ず漫画家になると決めていました。
――初めて作品が発表された時の思い出は。
『おもしろブック』に入選した漫画が最初に発表された作品でした。原稿料を初めてもらった。千円だったかな。あの頃は大金だった。何か記念にと、水彩の絵の具とパレットを買って残しました。今も使っています。もう、45~46年ぐらい前のことです。絶えずそれを見て、これを買ったときの感動を忘れないようにしようと思ってね。
■逃避から向き合うまで
――児童漫画家としてデビューした中沢さんは、いつ原爆をテーマに作品を作ろうと思いましたか。
デビュー当初、ぼくはSFや、宇宙もの、野球ものばかりを描いていて、原爆のことを描こうと思わなかった。
原爆という二文字に含まれる死体の腐る匂いから、あの状況が浮かぶんですよ。あの何とも言えない、いやな匂いから逃げたい。逃げて逃げて、思い出すのもいやだと思った。
それから、東京に出るとね、被爆していることを知ったら、傍に寄らないんですよ。原爆差別があるんですよ。放射能がうつるんだと思っているようです。もう驚いて、冗談じゃないよ。これが唯一の被爆国の実態なのか、とホントに腹が立ってね。いつかそういうものを書こうという気持ちにはなったが、まだまだ踏ん切りがつかなかった。
――決め手は何でしたか。
1967年、原爆病院に7年入院していた母が60歳でなくなりました。ぼくたちは親父たちの骨を焼け跡から掘り出しました。人間が焼かれるとどういう形になるのか、分かっているのですよ。ところが、いざおふくろのお骨を拾うことになって探したら、骨がないんですよ。4センチぐらいの白い破片が点々と見えただけ。そんなばかな。原爆は人間の骨まで奪われるのか、ああ、もう腹が立ってね。
「ぼくの大事な、大事なおふくろの骨を返せ」と言いたくなってね。
それで、その小さな骨を中沢家の墓石に移しかえて、夜行に乗って東京に帰った。列車にガタン、ガタン揺られながら、つくづく思ったんです。
自分はいままで原爆から逃げていたが、もう逃げんぞ。もう徹底的に原爆と戦ってやろうという気になって、一週間で描きあげたのは「黒いシリーズ」の第一弾、「黒い雨にうたれて」です。
――「黒い雨にうたれて」は日本では、原爆をテーマにした最初の漫画のようですね…
被爆者の青年が原爆の怨念をもって、悪徳商人のアメリカ人をぼんぼん殺していくハードボイルド調の漫画です。当時はまだ原爆を公にさせられない時代でしたから、発表するのに1年ぐらいかかりましたね。大手はみな、内容はいいんだけど、ちょっときついという。結局1年間、埃をかぶっていたんですよ。それで、ある日考えてみてね。誰かの目に触れられたらいいじゃないか。誰かが見て、何かを感じてくれればいい、と。そう思って、創刊して間もない青年誌「漫画パンチ」というところへ行った。そこの編集長がまたいい編集長で、作品を読んで、「載せましょう」と言ってくれた。幸い、評判がよくて、それで黒いシリーズを全部で6篇描いたんですよ。
――この流れで誕生した『はだしのゲン』は、今や世界各国の言葉に翻訳され、出版されていますね。
感動です。わが息子が立派に成長した気持ちでいっぱいです。当初はただコツコツと描いただけで、こんなにたくさんの人に好かれて、ファンになってくれるとは思いませんでした。
世界各国言語に翻訳された『はだしのゲン』
――いま、『はだしのゲン』の英語版をオバマ米大統領に届けようと運動しているようですが…
オバマ大統領のチェコのプラハでの演説を、翌日新聞の記事で読んだ。歴代のアメリカ大統領は、みな、正義のために原爆を投下したという論調ばかりで、信用できないなと思っていました。ところが、オバマさんは、アメリカが加害者だとはっきり言うし、核兵器をなくしていかなくちゃいけないという演説をしました。それを聴いて、あの人は信頼できる人間だと思って、ぜひオバマさんと2人のお嬢さんに英語版を読んで考えてもらって、次の世代へバトンタッチしていきたいです。
オバマ氏に送る色紙の中には、私は「人類にとって最高の宝は平和です」、と書きました。何よりも、核大国のアメリカの市民にこの作品を読んでもらいたいですね。多くの人に読んでもらって、次の世代にもぜひ読んでもらいたい。
■日中の平和交流を期待
――原爆の被害がテーマの『はだしのゲン』ではありますが、同時に、戦争の多面性、とりわけ、日本はアジア各国では加害者の立場にあった歴史をしっかりと踏まえていました。
ぼくは歴史を知らないといかんと思います。日本の戦争の歴史を振り返ってみると、もう残酷なことをしていますよ。韓国でも。中国でも。
だけど、思想統一というか、小学校1年の時から、日本が唯一の正義の国だという軍国教育を叩き込まれました。中国人だの朝鮮人だのが人間じゃないという見方を植えつけて、生徒を、平気で人を殺していく人間にしてしまう戦前の教育の恐ろしさ。
ぼくは、日本人が被害者ぶるのではなく、ほかの国で何をしたのかも知っておく必要があると思います。
――これらの日本と中国に向けてのメッセージは。
『はだしのゲン』を描くために、中国の戦争の歴史を調べつくしました。南京虐殺の資料が出てくると、なんと日本人がひどいことをしたのかというのが出てくる。やりきれない。申し訳ない気持ちでいっぱいになります。戦前、日本人は日本が中国大陸で何をしたかを知らない。戦争の実態を知っていない。そういうこと、日本が反省していない。
いま、日本国内では、憲法9条を改正しようという動きがあるが、ぼくは、日本は戦争をしない平和国家であること、そして、非核三原則の精神を守らなければならないことが根本だと思います。
これからは、日本は中国の人と仲良く手を取り合って、平和外交で行きましょう、そういう世代を育てなくちゃいけない。次の世代で仲良く手を取り合って、お互いの国の交流をしたいです。(聞き手:Yan)
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