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日本中国友好協会 長尾光之会長~新段階の日中交流

2009-07-16 20:53:37     cri    

新段階の日中交流 平和で豊かな日中関係を

――日本中国友好協会 長尾光之会長に聞く――

 日本中国友好協会の会長で、元福島大学教授。1942年、魯迅とゆかりのある仙台に生まれました。「幼少の時、北京で暮らしていたことが、どこか心に残っていた」こともあり、高校から中国語を学びました。
 1962年、大学に進学した長尾氏は、3000人中たった5人しかいなかった、という中国語を専攻します。中国語の言語学と文学の研究を志し、「四六時中、中国とかかわりのある」人生を送ってきました。
 1960年代の「中国に行きたくても行けなかった」時代を経て、今、観光や仕事などを通して、直接触れ合えるチャンスが増えたことを喜んでいます。6月末、長尾氏は北京で行われるシンポジウムに出席するため訪中。そして、一行4人を率い、CRIを訪れました。日本各地に1万1千人の会員がいる協会の長として、これまでの歩みをどのように振り返り、また、中日交流の現状をどのように見ているのでしょうか。




















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――今回は、金融危機に関するシンポジウム参加のため、訪中したようですね。

 今回は、中国国際交流協会が主催する「国際金融危機下における社会福祉と就職保障」の座談会が開かれ、招待を受け、それに参加しました。参加者はいずれも現在の日本と中国で、経済学研究の第一線に立っている方々で、たいへん広く、深い話ができました。

――議論の中で、一番印象に残ったことは?

 私は経済学が専門ではないですが、議論を通して勉強になりました。今回の金融危機が起きた一番の原因は、アメリカの金が金を生む金融政策が破綻して、それが全世界に影響を及ぼしたことです。それに比べて、中国、日本、アジアは製造業や農業も行われていて、これからはアジアの時代だと共感しました。

――ところで、日本中国友好協会として、これまで、どのような気持ちで中国と付き合ってきましたか。

 協会が1950年に発足以来、一番モットーとしているのは、中国文化の日本への紹介、そして、中国と再び戦争しないという平和の課題です。私たちとして、「日中友好運動は、自主的な、日本人の立場に立った友好運動でなければならない」という原則のもとに、一貫した活動として続けてきました。

 改革開放後、日本に来られた中国人がたいへん増えており、貿易なども盛んになっています。今は、これまでの時代と違って、直接交流が増えており、日本人と中国人との付き合いが、新段階に入ったと言えます。(写真は日本中国友好協会刊行の出版物)

――両国の友好関係の構築にとって、直接交流の意義をどのように見ていますか。

 これはつまり、今までにない深いお付き合いができるということです。日中の国交回復は1972年で、中国の改革開放は1978年以降のことでした。日本人と中国人が直接顔をあわせて話ができるようになったのは、1980年代になってからのことです。今、我々協会がやっている講座は、講師のほとんどが中国人の留学生です。これは以前には考えられなかったことです。

 それから、仕事や留学などで、中国の方が日本人の地域の中に大勢住むようになりました。同じように、日本人が中国に行って、日本語の教師をしたり、仕事で滞在したりしている人の数も、以前と比べ物にならないぐらい増えています。

 そうした中で、だんだん人間関係が深まっているわけですが、もちろん、難しい問題もあります。しかし、日本と中国の友好にとって、全体的に言うと、プラスなことになっていると思います。

――これを背景に、中国との交流の仕方にも変化が見られますか。

 日本中国友好協会の本部としては、この10年くらいは、中日友好協会、国際交流協会等々の有力団体との付き合いが深くなりつつあります。北京で話し合いをしたり、全国の視察をしたり、あるいは、平和関係の行事に参加したりするようになりました。たとえば、秋に瀋陽で行われる9・18集会などのイベントにも参加するようになり、以前よりも盛んに交流をするようになりました。

 このほか、全国の県連や支部の関係者も中国に行き、東北地方などをまわる「平和の旅」、あるいは、普通の観光旅行を通して、中国の文化と深く触れ合う活動を盛んに行っています。

――長尾会長と中国とのかかわりは?

 私は1942年、仙台に生まれました。2歳(1944年)の時、父親の仕事で北京へ行き、日本が敗戦した翌年(1946年)、日本に戻ってきました。当時の日本は、たいへんな戦争の惨禍が残っていました。

 幼少の時、中国で過ごしていたことが、どこか心に残っていたようで、高校時代、先生がドイツ語や中国語関連のゼミを開いたのをきっかけに、私は中国語を選択しました。

 1962年、大学に進学した時は、中国のことをテーマにして勉強しようと決めました。当時は、ほとんどの学生はドイツ語やフランス語を専攻していましたが、私は英語と中国語を選びました。ちなみに、当時、私の大学には学生が3000人いましたが、そのうち、中国語を専攻した人はわずか5名でした。お蔭様で、却って中身の濃い授業ができました(笑)。

 大学で中国語を2年学んでから、中国語文学部に進学し、中国語を言語学という面から研究することに、テーマを定めました。また、1964年に日本中国友好協会に入会して、今に至っています。

――ということは、協会に入ってすでに45年になりますが、この間、どのように振り返りますか。

 世界も激動していますが、中国を巡る状況も、私の大学生以来の45年で、大きく変わった面があると思います。10年間続いた文化大革命の時代もあれば、1972年の日中国交回復もありました。国交回復に向かって、私たちも様々な団体とともに、日中友好運動3000万署名運動を展開し、この運動に私もだいぶ熱心に参加しました。そのため、国交回復のニュースを聞き、たいへん感動しました。

 私は1960年代、中国語を学んでいた頃、中国に行こうと思っても、それが不可能な時代でした。その中で、1980年代、改革開放以降、様々な交流が一層盛んになり、中国に行くことが簡単にかなえられる時代になりました。これからも日中友好運動がますます発展していくだろうと思っています。

――今後、地域としての結束が一層求められている中、どのような中日関係が求められていますか。

 われわれは創立以来、一貫して、自主的な、民主的な日中友好運動を唱えています。とくに、日中関係については、中国との間とも一定の距離をとって、日本人の立場にたっての運動を進めてまいりました。

 こういう風に交流が盛んになって、両国間の交流が広く、深くなっている事態の下で、21世紀も来年で10年目になります。日本と中国を含む、アジアは大きな、明るい将来があると思います。私たちは平和で豊かな日本と中国との関係を作り上げていくよう、様々な面で努力していく必要があると思います。

――最後に、新中国成立60周年へのメッセージをお願いいたします。

 第二次世界大戦が1945年に終わったわけですが、その前までは、中国は外国勢力が多数入っていました。アヘン戦争の頃から半植民地状態が続いていました。そういう中で、まず第一、1945年8月15日に中国が勝利したことが、一つの大きなポイントです。その後、1949年、中華人民共和国が成立したことは、さらに、世界史的な大きな出来事だったと思います。

 新中国が成立して60年間、様々なことがありましたが、基本的には統一を守り、現在は経済的にも、民生的にも非常に力が強くなって、世界第三の経済力を持つようになりました。

 この60年、アジアにおける中国の位置が高まりつつあり、今後もさらに高まっていくだろうと思っています。これからも、中国はますます発展していくだろうと思います。

【長尾光之氏プロフィール】


日本中国友好協会 会長

1942年   仙台生まれ
1964年   大学在学中から日本中国
    友好協会入会
1993年   協会全国副理事長
1996年   福島大学教授
1999年   協会全国理事長
2007年から今に至って 
              
 協会会長

(聞き手:王小燕)

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