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写真家 稲垣喬方さん~Part1 中国を思う

2009-06-19 16:34:50     cri    

中日交流の仲人役を目指す

    1930年、東京生まれ。京都府北桑田美山町の「かやぶきの里」(1993年、日本文化庁より「重要伝統的建造物群保存地区」に指定)を約30年にわたり撮影。「アマの身分」と「プロの腕」ひとつで仕上げた写真集『山里残影』(グラフィック社)は1992年の初版から2003年まで4版を出版、総部数1万冊近くとなった。 
 外交官の父と書家・歌人の母の長男として、少年時代、両親とともに北京に6年滞在(1941~1946)。母は歌集『北京恋』で知られる稲垣黄鶴(1903~2007)。
 戦後は舞台美術のスタッフとして、1955年、市川猿之助の大歌舞伎訪中公演及び翌年の梅蘭芳訪日公演に参加。1973年から、日本の大手新聞社の中国関連報道記事の収集、整理を始め、36年間でスクラップブック115冊分に。資料は今春、中国社会科学院日本研究所に贈呈されたが、収集は「これからもずっと継続していく」。
 フジテレビ美術部を定年退社後、表装工房を開き、和紙に写真を印刷するという斬新なスタイルの掛け軸を提案。
 愛する母親の影響を強く受け、「一日だって北京を思わない日はない」という稲垣さん。北京に入る度、重たい機材を背負って胡同にもぐってはシャッターを押し、「ジャージャー麺」の店に入ってはどんぶりをほおばったりしている。そして、現在、観光客のいない中国の奥地での撮影を続けている。
  

 















稲垣喬方写真集 山里残影(グラフィック社)




















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■Part1中国をう <北京に恋する母親に導かれて>

――稲垣さんと中国とのかかわりを教えてください。

 私は1930年、東京の生まれです。11歳から6年間両親と一緒に北京で暮らし、小学校と中学に入りました。
 北京から日本に引き揚げてからは、家に負担をかけたくないので、働いて自立すると決め、舞台美術の勉強を始めました。その後、歌舞伎座が再建されたので、そこで舞台美術の仕事をしていました。1955年、猿之助劇団が中国公演を決め、私がセット担当のスタッフに選ばれ一緒に中国をツアーし、また、翌年の梅蘭芳先生訪日の際もスタッフとして各地を巡演しました。
 最近は、北京、桂林、江西省、安徽省などを訪れ、中国の奥地での撮影を続けています。

――稲垣さんの北京と中国を見る目に、お母様の影響が大きいとおっしゃっていますが…

 母は中国の漢字や文化、歴史に惹かれ、北京に来てから中国人の先生に書を習い、北京での生活を楽しんでいました。母は感性が豊かで、人が見逃すシーンにも感動を見出し、それを言葉で表現したい気持ちが常にあり、柳絮の花が散ったとか、荷物を背負って歩くロバの目の優しさなどを、すべて俳句に表現しました。
 母はまた空気や匂い、雰囲気そのもので北京を味わい、自らの歌集を『北京の恋』と名づけ、亡くなる直前まで北京のことを口にし、そのぐらい、北京に対する恋が募っていました。
 「北京に恋する」という心情は、普通の心情とはまた違い、親しみとも違いますよね。本当の恋に近い、美しい愛情の表現です。そういう雰囲気の中にいたから、自然と生まれてきた表現だったと思います。子どもの時からの親の気持ちが子にも伝わって、私も「北京病」にかかったわけです(笑)。(写真は中国社会科学院に資料贈呈後、母親の写真とともに李薇日本研究所所長と記念撮影する稲垣さん)

――1955年の大歌舞伎中国公演の思い出は?

 スタッフに選ばれて、とても嬉しかったです。当時、香港・深圳経由で中国に入りました。私たち舞台裏のスタッフは、役者より20日早く北京入り、セットを組み立てて、中国に一ヶ月以上滞在しました。公演は北京、上海、広州などで大反響を呼び、その様子は当時の新聞が伝えていました。

 最後は、中国の皆さんと「また必ず会おうね」と言って別れましたが、今度いつ会えるかなと心の中で思いながら、深圳の国境を歩いて渡った覚えがあります。

――公演の様子を報じた当時の中国の新聞は、いまも大事に保管しているようですね(写真)。

 両国が国交正常化前の出来事だったので、たいへん話題になっていました。必ずこれがいつか日の目を見ることができると思って、当日の新聞を買いあさって、いまだに大事にしています。おそらく日本にも中国にも現物がなくて、貴重なものだと思います。

――当時、稲垣さんにとって、9年ぶりの北京だったのですね。

 我が家に帰る気持ちでした。宿泊は新僑飯店。翌朝一番に北京駅へ行こうと思っていました。ところが、興奮して眠れずに、時計を見たら夜11時半だったのを朝の6時半だったと勘違いして、待ちきれず夜中一人北京駅に向かいました。誰もいない道を一人で歩いて楽しかったです。

――翌年、梅蘭芳先生が訪日した際もスタッフとして参加しました。

 梅蘭芳先生は日本で東京、名古屋、京都、大阪、福岡、ずっと巡演し、日本の観客に喜ばれました。私も北京にいた時、両親とよく一緒に京劇を見に行っていましたので、武将の朗々たる声が実に印象に残っています。

 梅蘭芳先生は、たいへん柔和な方で、やさしさに満ちていました。親しみをもって接してくださったので、恐れ多いと感じましたが、今は良い思い出になりました。当時の梅蘭芳先生と握手した時の暖かさ、今だに忘れられません。(写真は梅蘭芳氏との記念撮影。稲垣さん写真提供)

――中国人との付き合いで忘れられないエピソードは?

 1955年、訪中した時に知り合った中国人の友人ご夫妻とは、現在も文通を続けており、生涯の友人になりました。
 1956年舞台美術の仕事で仲良くなった中国のスタッフと「また会おうね」と約束して別れたものの、その中のお二人は東欧巡演に出かけた時、飛行機事故に巻き込まれ、帰らぬ人となりました。日本にいた私たちはこれを知り、大変ショックでした。お二人の巡演中のアルバムを作って、家族に渡したこともあり、普通の交流では味わえない深い交流ができたと思います。(つづく)(聞き手:王小燕)

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