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 これからの中日交流を支える若者たち 第四弾(4)

2011-03-02 11:51:43     cri    

 1990年代の留学生と言えば、その総数が少ないことに加えて北京も今ほどの発展を遂げてはいませんでしたから(現在では6本ある環状線が、当時は3本がやっと竣工した時代です)、行動範囲はパターン化されていましたし、また外国人が指定外の住宅に居住することも規制されていましたので、1人、2人の例外を除いては留学生のほぼ全員が寮生活を送っていました。このため、大学構内の人間とのお付き合いであっても、他大学の留学生との交流にしても、意図せずに密なものとなっていたように思います。

 これは日本人以外の外国人にとっても同様で、生活のベースとなるフィールドが集約されていたことから、必然的に日本人を含めた外国人同士の交流がごく自然に行われていました。

 スポーツチームは国際色豊かでしたし、宿舎では外人も他大学の生徒も皆がドアを開け放した部屋を行き来して、自国の料理を振舞う者、音楽のボリュームをいっぱいにして踊る者、中庭に楽器を持ち出して歌う者、夏にはキャンパス内でバーベキューをしたりもしました。

 誰かが特に企画するのではなく、いつも何となくこうした光景が広がっていたのです。


 他校の生徒や社会人などと郊外でキャンプファイヤーなども

 また当時、中国は急速な発展を迎える前の過渡期にあり、外国人や外国企業の進出においても様子見状態であったからか、加えて現役大学生よりもやや年を重ねた留学生が多かったこともあり、そうした中国の情勢こそ個人が大きく力をつけるためのチャンスだと、中国人との交流を積極的に図り、将来の基盤作りに奔走する人が多く見られたものです。

 その一方で、中国人はそうして交流を持った外国人留学生のアドバイスやビジネス手段と中国の前途を結びつけることで飛躍的な前進を遂げ、現在では富裕層として名を連ねる立場になっている人が数多く存在します。

 当時の日本人を含む外国人や中国人との交流は、古き良き昭和の香りがする素朴な触れ合いがベースとなっていたように思います。

 大きなイベントや取り組みが挙行されていたわけではありませんが、当時そうした小さな交流により生まれた小さな芽が、その後の中国のWTO加盟、オリンピック開催という春の嵐にさらされて、今ではまるで「花咲か爺さん」の御伽噺のように満開の花を咲かせているのです。

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