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~数字の「千」や「万」を含む四字熟語~

2013-01-28 18:05:58     cri    


























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 「千○万○」の構造の四字熟語

 「千」や「万」を含む四字熟語、例えば、日本語にも使われる言葉、「千差万別」。どんなことでも、ものでも、それぞれ違いがあって、一つとして同じものはないということです。

 一つの言葉に、「千」と「万」、どちらも入っています。中国語でも同じです。"qian cha wan bie"と発音します。「千」や「万」はいずれも大きな数字ですので、数が多いことを表します。「千差万別」のほか、中国語には、千〇万〇の構造の四字熟語はたくさんあります。

 例えば、「千言万語」。非常に多くの言葉を表します。「千山万水」。たくさんの山や川。山や川が続くこと。または、旅路の長くて険しいことを形容します。それから、「千辛万苦」。様々な辛いこと、苦労、困難を経験したことを意味するんです。

 「○○千金」の構造の四字熟語

 「一攫千金」、日本語でも使う四字熟語ですね。中国では、昔から、「千金」は大変価値あるものを表す言葉として、色々な場面で使われます。もちろん、四字熟語になっているものがたくさんあります。

 「一刻千金」という言葉があります。時間の貴重なことの例えです。これは蘇軾の詩、「春宵一刻値千金」から来ています。春の夜のすばらしさは一刻が千金にも値するという意味でしたが、今はよく新婚の夫婦が過ごした初めての夜のことを表します。蘇軾が描いた元の意味より、少し俗っぽくなりましたね。

 もうひとつご紹介しましょう。「一字千金(いちじせんきん)」。大変優れた文字や文章のことを言います。秦の始皇帝の宰相、呂不韋(りょふい)にまつわる故事があります。ご紹介します。

 商人から秦の宰相となった呂不韋は、自分の名声を高めるため、食客3000人を集め、26巻の20万字あまりからなる『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』という書物を完成させました。これは春秋戦国時代の各思想流派の説を集めた一種の百科全書です。

 この書物は紀元前239年ごろに完成しました。呂不韋は全文を書き写し、都の城門に貼り付けるよう命じると共に、「一字でも増やしたり、減らしたりできるものがおれば千金を与える」との布告を出しました。

 これは「一字千金」の話の起こりです。その後の話なんですが、結局、その本に一字増やしたり減らしたり、或いは直したりした人はいませんでした。

 人々は呂不韋の力におびえ、下手をすれば、命を失うかもしれませんから、千金は大金ですが、命がなければ意味がないですので、一人も現れませんでした。

 呂不韋は、もともと地位の低い商人でしたが、商人から一躍宰相になって、しかもそれほどの力を持っていたというのは、たいしたものです。

 呂不韋は最大の投機をしたのです。彼は自分がもっていたほとんどの財産を使って、当時、趙の国で人質をしていた秦の王子を秦の国王にしました。秦の国王は恩返しをするため、呂不韋を宰相にしました。

 しかし、商人だった呂不韋は宰相になって、権力は持てたでしょうけど、人を納得させる人望は持っていませんでした。

 呂不韋はその事でとても悩んでいました。食客を招いて相談すると、こんな意見がありました。「孔子の名望が高いのは、『春秋』という歴史書を編纂したからです。孫武は呉の将軍となれたのは、『孫子兵法』を呉王に見せたからです。我々も本を書いたらどうですか?」という意見でした。

 それで、『呂氏春秋』が書き上げられたのです。そして「一字千金」という四字熟語も生まれました。

 中国語では、〇〇千金の形の四字熟語は、「一字千金」のほかにも、いくつかあります。たとえば、先ほど紹介した「一刻千金」。美人の微笑みが千金に値することを表す、「一笑千金(いっしょうせんきん)」。それから、一に飯、千金と書く「一飯千金(いっぱんせんきん)」。わずかな援助に十分な恩返しをすることを形容する言葉です。

 万事具備

 準備万端という意味です。

 中国語では、もちろん、「万事具備」を単独で使うこともできますが、一番よく使われる形は、"万事具備、只欠東風"です。準備は完了したが、必要な条件がただ一つ満たされていないという意味です。これは日本でも数多くのファンがいる『三国志』から出た名句です。今でも、日常会話の中でよく使われています。

 この言葉は『三国志』の中でも最大の見せ場ともいえる「赤壁の戦い」から来たのです。中国後漢末期の208年、長江の赤壁で起こった曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いです。歴史と一致しないところがありますが、羅貫中が書いた『三国志演義』バージョンをご紹介しましょう。

 208年、曹操は83万人の軍を率いて、長江の中流にある赤壁に駐屯し、蜀の劉備を打ち負かした後、さらに、呉の孫権をも侵攻しようとしています。蜀と呉は同盟を結び共同で曹操に抵抗します。蜀と呉の兵力は少なく、両軍をあわせた連合軍も、魏に及びません。

 劉備の軍師、諸葛孔明と孫権の総大将、周瑜(しゅうゆ)は、大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し、火攻めの計略をたてました。しかし、すべての準備が整った後に、周瑜は曹操の船舶が長江の西北側に停泊し、連合軍の船舶は南側にあるという事に気付きました。問題は、季節は10月ですので、西北の風が多く、火攻めを実施する場合、逆に自分たちの水軍に被害をもたらす恐れがあります。東南の風が吹かないと火攻めを実現できないと、大変心配した周瑜は、血を吐いたりして病に倒れました。

 見舞いに行った諸葛孔明は、処方箋として、「曹操を破るには、火計がよい。準備万端だが、東風をまつばかり。」という意味の16文字を周瑜に渡しました。

 自分の心配事が当たった周瑜は諸葛孔明に計略を聞きました。諸葛孔明は豊富な気象知識を持っています。近いうちに数日間東南の風が吹くだろうと予知しました。そして、周瑜に「風や雨を呼ぶ術を持っている。三日三晩、東南の風を貸してあげればいいかな?」と言いました。

 周瑜は大喜びし、「三日三晩など贅沢は言わない。一晩でもいい。きっと成功できるぞ!」と言いました。

 すると、周瑜は部下に火攻めの準備をするよう指示し、諸葛孔明が東風を借りてくれば、すぐに出兵できる態勢を整えました。

 諸葛孔明は祭壇に登り、天に祈りを捧げ、口の中で何かぶつぶつ言いながら、季節外れの東風を呼び起こすふりをしていました。

 夜中になって、期待通り、東南の風が吹き始めました。連合軍はわらをつんだ船に火をつけ、火攻めの計略を実行しました。鎖で固定していた曹操軍の船隊は切り離しが間に合わず次々と炎上しました。更に、東南の風で地上の陣地にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られました。

 これは有名な「赤壁の戦い」の一節でした。この戦いでの曹操の敗北によって、中国は三分の形勢となりました。

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