★九牛一毛(きゅうぎゅういちもう)
牛にはたくさんの毛がありますよね。九匹の牛なら、更に九倍の毛になります。たくさんある中で、たった1本の毛は、どんなに少ないかってことがよく分かりますね。たくさんいる牛に生えた多くの毛の中の一本という意味から、問題にならないほどの小さなことを表す四字熟語です。取るに足りない些細なことを形容します。
中国語の古語には、数字はいつも確かな数ではなく、「多い」或いは「少ない」という漠然とした意味を表すことが多いです。ですから、この言葉では、「九牛」は九匹の牛ではなく、九匹よりもずっと多くの牛、たくさんの牛を指します。そうすると、「九牛」は、広い範囲となります。そんな広いものに対する一毛というのが、極端に言えば誤差のような物の数にも入らない、くだらないものですね。
中国で初めてこの「九牛一毛」を使った人は、『史記』を書いた偉大な歴史学者、司馬遷です。司馬遷は、歴史書『史記』を編纂し、大きな功績を残しましたが、個人的な運命は挫折ばかりでした。
司馬遷は、北方の少数民族、匈奴との戦争で失敗し、捕虜となった李陵(りりょう)を弁護したため、当時の皇帝、前漢の武帝の怒りに触れました。宮刑、これは男性を去勢する刑罰ですが、当時では死刑に次ぐ重刑です。司馬遷は、そんな屈辱的な宮刑を処されました。
司馬遷は4年後に大赦によって釈放されました。2年ほど前、友人の任安(じんあん)から手紙を受け取っていましたが、まだ返事を書いていないことを思い出しました。歴史書の編纂を決心した司馬遷は、この並々ならぬ大業への決意と自分の思いを返書の、『任少卿(ジンショウケイ)に報ずるの書』に綴りました。「もしも、私が法に従って、死刑を受けたとしても、多くの牛の中から、一本の毛を失ったようなもので、虫けらの生き方などと、変わることもないだろう。」と書きました。
司馬遷は李陵を弁護したため、死刑を宣告されました。しかし、司馬遷には、まだ自分と父親の夢、つまり、歴史書を書くことが出来ていないのです。そんな夢を実現するため、司馬遷は宮刑を受け入れました。もし、自分が死んだら、権力を持っている人たちにとっては、取るにも足りない「九牛一毛」のようなことだと、自分の惨めな運命を嘆いたのです。そのときの司馬遷にとっては、死ぬことの方が簡単で、行きつづけることの方が辛かったでしょうね。
「私は虫けらのような生き方がいやだ。私の心の中にまだ出し尽くしていないものがある。死んでしまえば父と私の著作が世に残らない。我慢して生きるしかない」と、司馬遷は色々考えたと思います。
「九牛一毛」、取るに足りない些細なことを形容する言葉です。
★九死一生(きゅうしいっしょう)
九割、助からない命が、かろうじて助かること。死ぬ可能性が九分、生きる可能性が一分の意味です。死を避けがたい危険な瀬戸際に立っているということも形容します。
日本語では、中国語の四字熟語「九死一生」から転じて、一般的には「九死に一生を得る」という諺の形で用いることが多いです。
★三教九流(さんきょうきゅうりゅう)
「三教九流」は、宗教・学術上の各種の流派、色々な職業の人を表します。
三教とは、中国で流行っていた儒教、道教と仏教を指します。中国の儒教って、あんまり宗教としては意識していないですが、儒教は宗教と言えるかどうか、昔から論争があります。いずれにしても、儒教は宗教よりも、中国、ひいては中国文化圏では、絶大な影響力を持っていることには間違いありませんね。
また、九流という言い方は、一番最初に、『漢書』に出たものです。中国の春秋戦国時代、色々な思想流派が争う「百家争鳴」の時代だったのです。
「百家争鳴」の「百家」は、実際、百種類がなく、6流派でした。陰陽家、儒家、墨家(ぼくか)、法家、名家と道家でした。『漢書』の編纂者、班固(はんこ)は、この6家に、更に、3家を加え、「九流」に分類しました。班固によって加えられた3家は、縦横家、雑家と農家です。
要するに、春秋戦国時代のあらゆる思想流派ですね。なので、「三教九流」は、宗教と学術面の各流派及び社会の各職業の総称となります。
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