天津100年の老舗、キースリン・レストラン
今、国際的な大都市へと成長した北京や上海では世界中のグルメが楽しめます。しかし北京のお隣の天津には、かなり前から洋食が食べられるお店がありました。それが100年以上の歴史をもつ、起士林(キースリン)です。1907年、当時のフランス租界にオープンしたレストランです。天津で初めての洋食店でした。
キースリン・レストランについて、天津市作家協会の劉航鷹副理事長は、次のように話してくれました。
「子どもの頃、一番食べたかったのはキースリンのアイスクリームです。ずっと憧れていました。店の前を通るたび、いつも窓から中を覗いたものです。店の中には大きくきれいな螺旋階段がありました。1階はカフェで、2階はレストランです。当時、天津にいた外国人やお金持ちの家族はよくこの店に来ていました。クリスマスになると、子どもと同じぐらいの高さのケーキがショーウィンドーに飾られました。一つは、ロシアのクレムリン宮殿のようで、私のお気に入りでした」
お店のオーナーは、アルボト・キースリンというドイツ人でした。当時、8ヵ国連合軍のドイツ軍の従軍コックをしていました。戦争が終わった後も天津に残り、奥さんと一緒に小さな洋食店を開きました。それがキースリン・レストランです。この店はオープン当時、フランス租界、今の解放北路とハルビン大通りが交差するところにありました。しかしオープンからしばらくして、フランス人の客と喧嘩になり、フランス租界を追い出されてしまいました。その後、キースリン夫妻は今の解放路に再び店を構えたのです。当時、周辺にはドイツ租界とアメリカ租界があり、多くの外国人で賑わっていました。店で作るソーセージ、パンやキャンディが「美味しい」と評判になり、客は増えていきました。さらに経営にキースリンの奥さんの弟、トビキが加わり、この時期にレストランは、全国にその名が知られるほどの人気となりました。その証拠に当時、イギリス租界で2000人ほどのパーティーが開かれた際、すべての食事はキースリン・レストランが担当したという話が残っています。
天津に、「近代天津と世界」という博物館があります。この博物館に1937年に撮影された1枚の写真があります。それは、キースリン・レストラン創業30周年の記念写真です。写真には従業員が200人ほど写っています。
1920年代と30年代、中国の中産階級以上のエリートたちの間で洋食ブームが起きました。この流れに乗じてキースリン・レストランは繁盛し、天津の本店のほか、1934年に南京にも店を開きました。しかし1936年、南京支店が旧日本軍の空襲で壊されてしまいました。同じ年、上海の静安寺路にキースリン・レストランがオープンしました。そして1940年、上海の一番の繁華街の南京路にもお店を出しました。さらに河北省の北戴河というリゾート地にもお店を出し、天津以外でもキースリンの味が楽しめるようになりました。当時、中国を訪れたことのある外国人の中でキースリン・レストランを知らない人はいなかっただろうと言われています。
1930年代、天津のキースリン本店の屋上にはダンスホールと屋外レストランが設けられ、これが繁栄を極めたレストランのピークとなりました。その後、天津が旧日本軍に占領され、レストランも徐々に勢いを失っていきました。
1949年、天津は人民解放軍に開放されました。天津市政府の下に企業管理委員会が設置され、キースリンなどの外国系企業がこの委員会の管理下に置かれました。1953年、天津キースリンは、現在の所在地、浙江路と開封大通りの交差点に移転しました。この周辺には、オフィス街や音楽ホールがあり、有名人やお金持ちが顧客でした。再び店の経営も軌道に乗り始めました。
しかし時代は文化大革命へ向かって行きました。キースリンはブルジョアジーのライフスタイルの代表として、批判の対象となりました。キースリンは、肉まんの店、そして朝食を出す食堂へと変わり、店の名前も、工農兵料理店と改名されました……(任春生)
| ||||
© China Radio International.CRI. All Rights Reserved. 16A Shijingshan Road, Beijing, China. 100040 |