民国時代の有名な学者、胡適の故郷を訪ねて
胡適は中国新文化運動の先駆者であり、近代史において著名な学者でもあります。今年は胡適没後50周年です。胡適の故郷は安徽省績渓県上庄鎮の上庄村です。1891年12月に胡適は上海で生まれ、3ヵ月後母親と一緒に台湾に渡りました。しかし甲午戦争(日本名:日清戦争)が勃発し、1895年3月に胡適親子は故郷の上庄村に戻りました。ほどなくして胡適の父親はアモイで亡くなりました。故郷に戻った胡適は9年間私塾に通い、1904年に2番目の兄とともに勉学のために上海に向かい、人生の海へ漕ぎ出したのです。今日の番組では、中華民国時代の著名な学者・胡適の故郷を訪ねます。
安徽省の盆地にある上庄村は古い村です。この村の全体的な配置と横丁はこれまでの数百年と同じように今も変わらぬままです。記者がこの村を訪ねた時はちょうど梅雨の時期で、穏やかな雨が村をすっかりきれいにし、村の近くを流れる川を満たしていました。
上庄村の入り口に広場があります。その名は適之広場です。1941年、胡適の50歳の誕生日に、上庄村の名前は適之村と改名されました。しかしそれから60年の間に上庄村の名前は何度も変わりました。そして今は再び元の名前に戻ったのです。しかし村の入り口から胡適の旧居まで続く石畳の道は、今も適之路と呼ばれています。
胡適の旧居は上庄村の中心部にあります。清王朝の末期、1897年に作られました。これについて胡適の旧居をよく知る曹蘭芬さんは、次のように紹介してくれました。
「胡適の旧居は1986年に一般公開が始まりました。全国各地からの学者や観光客が大勢やってきました。1997年以降、国の援助で胡適旧居の公開の部分がさらに拡大されました。2000年から一年かけてさらに修築を行い、2001年12月17日の胡適生誕110周年に再びオープンしました」
胡適の旧居は4つの展示室からなっており、第二展示室はもともと胡適と妻・江冬秀の結婚当時の部屋でした。当時胡適夫婦が使っていた家具もそのまま残っています。1917年12月、胡適は結婚のためアメリカから故郷に戻りました。花嫁はこの村と山を隔てた向こう側の娘で、胡適の母が13年前に決めた相手でした。その時胡適は27歳で、当時にしてはかなり遅めの結婚でした。
第三展示室は応接間です。安徽省南部の一般の家と同じような構造です。部屋には四角いテーブルが置かれ、テーブルと壁の間には、長方形のサイドテーブルがあり、その上には胡適の父親が台湾から持ってきた貝殻と囲碁を入れる缶が置かれています。これについて、ガイドの劉さんは次のように紹介してくれました。
「この村は海から非常に遠いです。このような貝殻はめったに見ません。当時は、胡適のお父さんはこれを故郷にもってきて、村人に見せたかったのではないかと思います」
第三展示室からその後ろの部屋、第四展示室に入ります。この部屋の窓やドアは蘭の花の彫刻で装飾されています。現地の有名な職人が彫ったそうです。
この村には胡適の親戚がまだ住んでいます。中国の改革開放政策が実施された後、アメリカにいる胡適の息子が、上庄村にいる親戚と連絡を取り合いました……(任春生)
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