勢いよく発展している南京の新区、浦口
2011年10月10日は、孫文が率いた辛亥革命の100周年の記念日です。1911年10月10日、武昌蜂起が起こり、清王朝が倒れました。この日を境に中国は民主革命の時代に入ったのです。1912年1月1日、孫文が南京で総統代理に就任し、中華民国臨時政府が発足しました。その後、孫文は「実業計画」という国の発展計画に着手しました。「実業計画」の中には、南京の揚子江北岸の地域、浦口を発展させることが含まれていました。
それから100年。今、南京の浦口地域はどんな様子なのでしょうか、そして将来、どのように発展していくのでしょうか、今日の番組では勢いよく発展する南京の新区、浦口をご紹介します。
浦口は南京市の一つの区です。南京市の西北部、揚子江の北岸にあります。浦口列車駅前の広場に立って、昔のままの姿をとどめる駅を見ると、当時の列車のサイレンが聞こえてくるような気がします。
目の前に建つ列車の駅は閉鎖され、現在、南京の文化財保護エリアとなっています。駅舎の壁は剥がれ落ち、切符売り場、待合室も閉鎖され、窓ガラスは割れ、室内の椅子も壊れたままです。待合室の壁に映画のポスターが貼っていますが、いつの時代のものなのか、もう分かりません。錆びたレールの間からはたくさんの草が伸びています。改札口に錆びた欄干。
昔は賑やかだった場所に、今、乗客の影は見えません。列車の駅の向こう側にある中山埠頭はまだ賑やかで、汽笛が聞こえています。
70代の張宏軍さんは、浦口駅に40年間勤務していました。駅のすべてを知っています。栄えていた時代の駅の様子について、張さんは次のように語ってくれました。
「浦口駅は南京北駅とも呼ばれています。この駅は河北省、安徽省、江蘇省などの11省の交通の中枢につながっています。栄えていた時期は、駅の周辺に、石炭の引揚げ港、フェリー、バス、郵便局、病院などがあり、とっても賑やかでした」
孫文の支持のもと、1911年、浦口埠頭の近くの荒地に、浦口駅が建てられました。当時の鉄道は津浦鉄道という名前で、天津から浦口までを走っていました。100年という長い歳月に、列車のサイレンを聞き、数えられないほどの乗客がこの駅を行き来しました。
1918年の冬、著名な学者、朱自清はこの駅から北京へ出発する際、駅まで見送りに来たお父さんに別れを告げました。帰ってゆく父の後姿を見て、涙をこぼしました。その時の父に対する思いを、散文「後姿」に綴りました。散文が発表されると、たちまち大きな反響を呼びました。
1919年の春、フランス留学が決まった湖南省出身の学生たちがこの駅で列車に乗って上海へ向かいました。見送ったのは毛沢東です。
1929年5月、孫文の棺が北京からこの駅に運ばれ、その日の夜、揚子江を渡って中山陵に運ばれました。
1949年4月、鄧小平と陳毅が合肥からこの駅に来て、この日の夜、戦火の中、解放軍を率いて南京総統府を占領し、南京を国民党の統治から解放しました……(任春生)
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