クレア・リー・シェンノート(Claire Lee Chennault、中国では「陳納徳」の名で知られる)、米国陸軍航空隊中将で抗日戦争時、航空隊「フライング・タイガース」の隊長を務めた。
入選理由:
盧溝橋事変勃発から1945年まで、抗日戦争の8年間、米国軍からの航空援助隊員として中国を訪れたシェンノートは中国で戦うと同時に、中国のパイロットの訓練に当たった。彼が率いた航空隊は日本軍に打撃をあたえ、「フライング・タイガース」として名を馳せた。雲南省西部で繰り広げられた[氵真]西戦争で、シェンノートは日本軍の戦車が怒江大橋を渡ろうとするその瞬間に大橋を爆破し、日本軍の進撃を阻止した。
中国との縁:
シェンノートは1893年9月3日、アメリカ・テキサス州の農場主の家庭に生まれた。1937年4月に引退し、5月29日、中国の招きで中国空軍委員会の宋美齢理事長の顧問を務めた。七・七事変の後、シェンノートは宋美齢委員長の提案を受け入れ、雲南省・昆明市の郊外で航空学校を創った。米軍の基準で中国空軍を訓練し、中国空軍の抗日戦争を助けた。しかし、日本の外交圧力の下で、シェンノートの中国に対する貢献はのちに非公開なものとなった。
1941年、シェンノートはルーズベルト政権の密かな支持の下で、民間組織として米軍パイロットと技師を招集し、中国の抗日戦争に参加した。7月と10月の2回に分かれて、のべ200人のアメリカ軍人が中国を訪れた。正規軍ではなかったため、柔軟な戦術研究と訓練が行われた。彼らは昆明で初めて日本軍の戦闘機と対戦し、日本空軍を撃退した。31回の空中戦で217機を撃墜したが、彼らの犠牲は14機の戦闘機と5人のパイロットという少ないものだった。彼らの戦闘機には翼がついた虎が描かれているため、人々に「フライングタイガース」と呼ばれた。日米戦争が勃発した後、彼らは米空軍の第14航空隊として編成された。
1942年7月、シェンノートが率いる第14航空隊は敵軍戦闘機2600機を撃墜、多くの軍艦を撃沈した。
1945年8月1日、シェンノートが中国を離れる際、蒋介石と宋美齢が彼のために送別会を開き、当時中国の最高名誉とされていた「青天白日大藍綬帯」を彼に授与した。
1945年12月、シェンノートは再び中国を訪れ、1947年に中国人記者の陳香梅と結婚した。
1947年7月15日、アイゼンハワー大統領がシェンノートを中将に昇進させるよう米国会に申し立て、18日、米国国会はシェンノートの中将昇進を認めた。シェンノートは同月27日にワシントンで亡くなり、享年67歳だった。米国国防省はシェンノートの棺をワシントンのアーリントン軍人墓地に埋葬した。彼の墓碑の正面は英語で、裏面には中国語で「陳納徳将軍の墓」と記されている。
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