賽珍珠(パール・S・バック)、アメリカの女流作家で中国を描いた作品によってノベール文学賞を受賞しました。
入選理由:
彼女は熱い感情と客観性によって、中国の優しい人民と素晴らしい文化を紹介しました。その三部作『大地』は「中国農民の生活について史詩のような描写」のゆえ、ノベール文学賞を受賞しました。
抗日戦争の時、パール・バックは中国を支持するために、募金活動を行って、中国人民への支援を呼びかけました。「中国人を助けるために、私は何でもする」と、彼女は言いました。
冷戦中の中米関係について、パール・バックは「中国は友好的な国だ。あそこは私の子供時代の故郷だが、今はもういけない。私は中国を敵国と呼ぶことをしない。私の記憶では、中国の人たちはやさしく、中国の風景は美しい」と述べました。
パール・バックの文学作品について、文学史の閻煥東専門家は「ノベール文学賞が創立されて以来、受賞した作品の中で、パール・バックの『大地』三部作は唯一つ、心から中国と中国人を描写する小説で、中国人を家族とし、中国人の生活を自分の生活にし、中国を自分の第二の祖国とする外国人の作品だ。この作品の世界的な影響力と、世界で得る中国と中国人に対する理解、同情そして尊重に、及ぶものはない」と評価しました。
パール・バックが亡くなった時、当時アメリカのニクソン大統領は「西洋と東洋のかけ橋」と賞讃しました。
美学家、復旦大学の蒋孔陽教授は、「パール・バックの一番大きな貢献は、西洋に中国を紹介したことだ。彼女は中国文化を愛し、中国を紹介することに熱中した。中国に来た外国人は多いけど、パール・バックのようにできた人はいない」と評価しました。
中国との縁:
パール・S・バック、ウェスト・バージニア州ヒルスボロで生まれましたが、四歳の時に父カリー・サイデンストリッカーとともに中国江蘇省の鎮江に渡りました。中国で教育を受けて、英語よりも中国語を先に覚えました。中国文化の影響を受けた彼女は、本名がパール(パールの意味は真珠、中国語では珍珠)だったことから、賽珍珠(サィ・チンシュ)という中国名をつけました。1917年、帰国してランドルフ・マコン女子大学に入学、1924年に卒業し母校で心理学の講師をしていましたが、母の病気の知らせを受けて中国に戻りました。1917年、農業経済学者のジョン・ロッシング・バックと結婚し、一時、南京大学、南東大学で英文学を講義しました。1922年、文学作品の執筆を始めました。1926年、一時帰国してコーネル大学で修士号を取得しました。1932年、代表作『大地』を発表してピュリッツァー賞を受賞しました。1938年、スウェーデンの探検家・学者スヴェン・ヘディンの推薦により、ノーベル文学賞を受賞しました。
抗日戦争を支持するために、賽珍珠は抗日についての小説『愛国者』、『竜子』、シナリオ『光は中国に来る』を執筆し、他にも、いろいろな文章を発表、講演をし、彼女の筆で中国人民を支持し、世界に巨大な影響を与えました。
1972年、当時アメリカのニクソン大統領が訪中し、米中関係は急速に変化しました。パール・バックは訪中団の顧問に招かれましたが、断りました。長い間、中国を敵視したアメリカ政府と行動を共にしたくない彼女は、中国人民の友人として中国へ戻ることを決めました。彼女はNBCのTV番組「中国を再認識する」の招きに応じて、中国への準備を始めました。
しかし、当時の中国は文化大革命の最中で、パール・バックの訪中申請は通りませんでした。ショックを受けた彼女は、病に倒れました。そのことを知った周恩来首相は、ニクソン大統領にゆだねてパール・バックにプレゼントを贈りましたが、翌年、彼女は亡くなりました。
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