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柯棣華、力を尽くして逝去したインドの医者

2009-11-25 10:11:25     cri    

 柯棣華(1910-1942)、元名はドワナト・サンタラム・コートニスといい、インドの有名な医者です。彼は中国抗戦時期の国際中国援助医療隊の一員でした。

 入選理由:

 柯棣華は毛沢東が称賛した国際主義の精神の代表です。インド人ですが、中国共産党の党員でした。中国の抗日戦争を支援するため、八路軍に参加し、一生を中国の解放戦争に捧げました。毛沢東主席は柯棣華氏のために、「軍隊全体が1人の助手を失い、民族は1人の友人を失った。柯棣華医師の国際主義的精神を、私たちは永遠に忘れてはならない」と、弔辞を書きました。

 中国との縁: 柯棣華は1936年にインドの著名医学院を卒業しました。1937年、インド国民会議派は小型の中国援助インド医療チームを中国に派遣することに決まり、イギリス王室医学会に申し込みをしようとした柯棣華はこの医療チームを参加することを決めました。1938年9月、柯棣華などの5人の医者からなる中国援助インド医療チームが中国に到着しました。1939年2月延安に着き、八路軍総病院に勤め始めました。同年秋、毛沢東の許可をもらい、医療チームは白求恩の足跡を追随して前線へ向かうことになりました。一ヶ月くらいの長い旅と何度の封鎖を破る戦いで、この医療チームは晋東南部の太行山にある八路軍本部に辿り着きました。1940年3月、柯棣華はまた晋察冀辺区に入り、部隊と伴って数千里を転戦したうえ、ある旧日本軍の列車を攻撃する戦いを参加しました。1940年、「百団大戦」の期間、柯棣華は戦場まで僅か500メートルくらいの距離で救護所を設立しました。1941年1月、彼は白求恩国際平和病院の院長を務めました。旧日本軍の頻繁な掃討に面して、柯棣華と同僚たちは何回も建てた病院と学校を放棄せざるを得なく、森の中で旧日本軍と渡り合っていました。1941年11月、柯棣華は衛生学校の教員郭慶蘭と結婚して、翌年、子供を産みました。軍区の聶栄臻司令は「印華」という名を名づけていました。1942年7月7日、抗戦五周年の際、柯棣華は中国共産党に入りました。1942年12月、柯棣華は病気で殉職し、32歳でした。彼の墓は白求恩のと共に華北軍区烈士陵園にあります。

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