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スノー:中国紅軍と毛沢東に世界的な認識を勝ち取る

2009-11-25 09:39:59     cri    
 エドガー・スノー(Edgar Snow 1905-1972)、アメリカ人。著名な作家、記者。「目ざめへの旅」という著作の作者です。

 入選理由:

 もしスノーがいなかったなら、中国の人民だけでなく、世界の人民が紅軍、中国共産党、毛沢東に対して真実に理解することは何年も遅れたでしょう。情報が少ない時代に、スノーの著作「中国の赤い星」(本名:目ざめへの旅)は世界に中国共産党と毛沢東を認識させるのに最も重要な役割を果たしていました。多くの中国青年は「中国の赤い星」を読んで、革命の道に踏み入れました。中華人民共和国が成立した後、中米関係がよくない段階になっても、スノーは両国の人民の相互理解に力を尽くしていました。

 中国との縁:

 スノーはミズーリ大学のニュース学院を卒業してから、ニュースに関する仕事に就いていました。1928年に中国に来て、1936年6月、宋慶齢の推薦により、陝北の蘇区で取材を数ヵ月間行ないました。スノーは毛沢東などの中国共産党の指導者と交流、2万5千里の長征に関する資料を収集し、翌年「中国の赤い星」を発表しました。その時、国民党政権の宣伝によって、国民党統治区における人民は中国共産党、紅軍に対して、ほとんど悪いように認識していました。スノーは西側の記者として、いかなる政治的な偏見もなく、取材で収集した資料を通じ、中国と世界の人々に中国共産党、紅軍、指導者たちの真実を認識させました。「中国の赤い星」は特に西側諸国の人々に中国共産党の真実の姿を理解させました。

 抗日戦争のころに、スノーは英米新聞の従軍記者を担当しました。1939年、彼は毛沢東に再び取材し、本拠地の政権樹立などの状況を詳しく理解し、世界に客観的で真実の報道をしました。また、彼は「工合運動」を組織、発起、宣伝し、中国の戦時の経済を支えていました。

 スノーは1941年にアメリカに戻ってから、世界の人々に中国における抗日戦争の宣伝を続けていました。彼は「私は中国を支持する。真理、公正、正義は中国人民に属する。また、私はいかなる中国人民が自らを救うことに役立つ措置に賛成する」と語りました。

 新中国が成立した後、スノーは中国を3回訪問しました。これはアメリカ政府が新中国に孤立政策と台湾の国民党への支持政策を実行する年代に、アメリカ人としては、ただ一人認められたのでした。

 1970年10月、スノーは妻と中国を訪問し、中国の国慶節に参列しました。毛沢東と周恩来は天安門の楼閣でスノーを接見しました。

 スノーは1972年2月にジュネーブで逝去しました。彼の遺骨の一部は遺言によって、北京大学に埋葬されました。

 エドガー・スノー:私の半身は中国に属し、半身は全人類に属する

 アメリカの記者、作家のエドガー・スノーは世界の人々に20世紀前半の中国の人民の苦難と中国共産党が指導した革命の真実を伝え、中国革命の指導者や中国の人民と深い友情で結ばれていました。

 1972年、アメリカのニクソン大統領が「氷が破る旅」といわれる中国訪問をする前に、中国の指導者たちは人民大会堂でエドガー・スノーへの追悼集会を行ないました。毛沢東、周恩来、宋慶齢などの国家指導者たちはスノーの未亡人に慰意を表しました。宋慶齢は「エドガー・スノーは中国の人民の心の中に永遠に生きている」と話しました。

 アメリカの学者であるジョン・ハミルトンは「スノーが著した『中国の赤い星』は世界初の中国共産党および指導者を紹介する書籍で、多くの中国人に影響を与えるとともに、多くのアメリカ人を激励していた。また、『中国の赤い星』は人々の共産党への興味を燃やし、さらに多くの人が共産党に加入することを導いた。一方、アメリカでは、古い世代のアメリカ人はほとんどスノーの本を読んだことがある。スノーはその本の出版によって、ニュース界の名人になった。冒険の精神をもつスノーは中国に向い、毛沢東に会って、非常に重要な報道を発表したため、多くのニュースに興味ある若者はスノーのような人になりたいと思った。これは人の心を奮い立たせる一方、重要な政治意義をもっている」と語りました。

 1936年6月から10月まで、スノーは陕西、甘肃省、宁夏回族自治区を訪問し、毛沢東、彭徳懐などの紅軍の指導者を取材したことによって、蘇区を取材する初めての西方の記者になりました。1937年、スノーは北京で30万字の「中国の赤い星」を編纂し、極めて大きなセンセーションを引き起こしていました。

 スノーは当時の中国の人民の苦難と中国共産党が国の運命を変えるために行なっている抗争を目撃しました。そのため、共産党に同情し、支持し続けていたとともに、共産党の指導者たちと深い友情を結んでいました。それにより、ハミルトンは「スノーは中国共産党の指導者を尊敬し、彼らの革命活動を尊重し、指導者たちが卓越した指導力をもっていると思っていた。彼は人民に強い愛情をもち、共産党の革命運動の成功を希望していた」と話しました。

 スノーは中国共産党と緊密に付き合っていたため、アメリカでマッカーシズムに迫害されるだけでなく、学界とメディア業界からも非難を受けていました。1959年、スノーと家族はスイスのジュネーブに引越しました。臨終になる前にも、彼は中国社会主義の革命と建設に関心を示しました。ハミルトンはそれにより、「スノーの極立った特徴は誠実だ。彼は最も誠実な記者だ。多くの記者はマッカーシー時代に自己弁護をしましたが、スノーは自分が関心していることに依然として執着していた。そうしたうえで、彼は家族を含める多くの人に尊敬されていた」と述べました。

 いま、スノーの墓は授業をした北京大学の未名湖の湖畔にそびえ立っています。墓碑には「中国人民のアメリカの友達――エドガー・スノーの墓」と彫っています。スノーの未亡人であるルイーズ・ウィーラ・スノーは「スノーの遺書には『私は中国を愛する。死後、私の遺骨の一部を中国に埋葬し、また遺骨の一部をハドソン湖の湖畔に埋葬することを希望している。私の魂はハドソン湖が大西洋に合流することに従って、ヨーロッパまたほかの人類のあこがれの地へ流れていく。そうすれば、私は世界各地の傑出した人々と知り合える』と書いてある」と語りました。

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