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渡来人と帰化人(1)

 日本の歴史の本や歴史小説を読んでいると、日本の歴史は、渡来人や帰化人を抜きにしては語られないことに気がつく。日本列島に国の形が出来上がる前に、移住して来た人たちを渡来人といい、国が出来てから来た人たちを、帰化人とよんでいるらしい。

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 「シルクロード」という言葉は、19世紀のドイツの地理学者リヒトホーヘンが最初に使ったものだ、といわれている。そのシルクロードを最初に切り開いたのは、紀元前138年、前漢の武帝に勅使として西域に派遣された張騫であるというのが、定説になっている。中国の絹織物が、遠くローマまで運ばれていって歓迎されたのは、その後のことである。

 ところが、中国大陸と日本列島との間の交通は、それよりずっと以前に開かれていた。<中国中日関係史学会>の会員学者の研究成果によれば、中国の黄河流域や長江流域にはじまった養蚕業が、秦の時代に、すでに、日本に伝わっていた。桑を摘み、蚕を飼い、生糸を紡ぐ人たちが、すでに日本列島に定住していたのである。

 中国大陸の文化が、中国の領土である台湾に伝わるよりも先に、日本の九州に伝わっていったのは、中国の東に陸つづきの朝鮮半島があったからである。朝鮮半島に定着した大陸の文化が、多くの移民たちによって日本列島に伝わっていった。朝鮮半島の南端から島づたいに海峡を渡れば、当時の航海術をもってしても、容易であったであろう。

 その後、航海術と造船術の発展とともに、大陸から直接日本に渡って行った人も多くなった。日本列島は海に囲まれているから、四方八方から、つまりシベリヤからも、太平洋の島々からも、又、東南アジアの各地からも、人々が漂着して来て住みついた可能性は大きい。多くの民族の血が混って、優秀な日本民族として育成されたのであるが、その中で最も多くの移民は、朝鮮半島と中国大陸からであったのは想像に難しくない。

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 わたしは、前世紀の90年代の初期、退官して<中日関係史学会>の副会長の仕事を引き受けていた頃、日本の外務省の招待で日本訪問したとき、宮崎県の高千穂町に二泊したことが、ある。阿南惟茂さんがアジア局長で、佐藤重和さんが中国課長のときで、わたしの場合は、オピニオン・リーダーということで、10泊11日の訪問だった。

 高千穂町は、山々にこまれた高原地方で、昔は神々が住人としていたところで、山の数だけ神話がある。町役場からもらった小冊子によれば、天照大神の孫であるニニギノミコトが、天照大神の命をうけて、高天原(タカマガハラ)から高千穂の峯に八百万(ヤホヨロヅ)の神々をひきつれて降臨した、とある。しかも、一行は、籾(もみ)をもって来ている。これは、まさに稲作文化を日本にもたらした渡来人の集団である。日本が、縄文時代から弥生時代に移行するときの話ではないか。弥生人の主役は、渡来人であったのだ。

 高天原がどこにあったのかは定かでないが、さほど遠くないところにあったに違いない。この渡来人の集団は、地元の先住民たちから歓迎された。先進的な生産手段と生活様式をもたらしたからであろう。武力で侵攻占領した形跡はない。

 司馬遷の『史記』には、徐福が秦の始皇帝のために不老長寿の薬草をとりに東の海に出て、目的地に着いて帰らなかった、という記述がある。それにもとづいたものであろうが、中国から徐福の一行が、日本に住みついたという伝説がある。

 中国では、北は遼寧省から南は江蘇省まで、徐福関連の史跡があるし、河北省の滄州には、徐福の船団が船出する前に、三千人の童男童女に職業訓練をしたという「千童村」���る地名が今でも残っており、中国最古の華僑村と自称している。

 日本では、なんと、北は青森県の八戸から、南は九州の鹿児島県や佐賀県まで21ヶ所に、徐福一行に関する言い伝えや「史跡」がある。なかには、お墓もあれば、神社に神として祀られているところもある。

 最近、中国と日本、韓国の学者や研究者たちが、毎年、交互に徐福に関するシンポジウムを開いているが、これが事実なのか、伝説にすぎないのかは、意見の分かれるところであろうが、秦の時代から、中国からの渡来人の船団が、日本各地に漂着したであろうことはありうる話である。

 この渡来人たちが、日本にもたらしたものは、稲作文化であり、ちょうど日本が縄文時代から弥生時代に移行した時期である。徐福の伝説が残っている日本の21ヶ所のどこにも、徐福の集団が原住民との間で武力衝突があったという言い伝えはない。すべて原住民に歓迎されている。日本の縄文時代から弥生時代への移行は、渡来人たちのはたした役割が大きく、しかも平和的移行であったと想像できる。

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 また、東京の中国大使館勤務のころ、わたしは、飛騨の高山に行く機会があった。高山は、ほとんど全市民が木工を生業としていて、木工の専門学校もあり、卒業すればマエストロという称号がもらえる。高山の中心地帯に韓志和という人のブロンドの胸像があり、この人は、昔、中国から来て、高山の人たちに木工技術を教えたのだ、と記念している。韓志和は、木工を教え終えた後、「鶴に乗って西の方に行った」という言い伝えもある、とのことだった。「騎鶴西去」とは、中国語で、この世を去ったという意味である。韓志和は、高山で生涯を閉じたのであろう。

 同じ頃、京都府の池田市の市会議員たちが、大使館に挨拶に来られた。その人たちの話によれば、池田市は、織物の町で、大昔、中国の女性が池田に来て、機(はた)織りを教えたので、その女性を祀る神社があるという。

 以上の伝説は、集団で渡来した場合も、個人で渡来した場合も、先進技術をもって来て歓迎されたのが、大きな特徴である。以上。

丁民先生の略歴

 1949年、清華大学経済学部を卒業、新聞総署国際新聞局に入局。1955年外務省に転勤、日本課課長、アジア局副局長を経て、1982年から日本駐在大使館公使参事官、代理大使を歴任。1992年退官。現在、中国中日関係史学会名誉会長を務める。

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