司馬遷の『史記』には、徐福が秦の始皇帝のために不老長寿の薬草をとりに東の海に出て、目的地に着いて帰らなかった、という記述がある。それにもとづいたものであろうが、中国から徐福の一行が、日本に住みついたという伝説がある。
中国では、北は遼寧省から南は江蘇省まで、徐福関連の史跡があるし、河北省の滄州には、徐福の船団が船出する前に、三千人の童男童女に職業訓練をしたという「千童村」なる地名が今でも残っており、中国最古の華僑村と自称している。
日本では、なんと、北は青森県の八戸から、南は九州の鹿児島県や佐賀県まで21ヶ所に、徐福一行に関する言い伝えや「史跡」がある。なかには、お墓もあれば、神社に神として祀られているところもある。
最近、中国と日本、韓国の学者や研究者たちが、毎年、交互に徐福に関するシンポジウムを開いているが、これが事実なのか、伝説にすぎないのかは、意見の分かれるところであろうが、秦の時代から、中国からの渡来人の船団が、日本各地に漂着したであろうことはありうる話である。
この渡来人たちが、日本にもたらしたものは、稲作文化であり、ちょうど日本が縄文時代から弥生時代に移行した時期である。徐福の伝説が残っている日本の21ヶ所のどこにも、徐福の集団が原住民との間で武力衝突があったという言い伝えはない。すべて原住民に歓迎されている。日本の縄文時代から弥生時代への移行は、渡来人たちのはたした役割が大きく、しかも平和的移行であったと想像できる。
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