三木 雅雄02/08(日本民俗学の父・柳田国男縁の兵庫県福崎町辻川の生まれ。大庄屋三木家の第11代当主。1996年に会社を退職。2002年から中国語教室に通い始める。東京都在住)
劉敬老師との出会い
劉敬老師とお会いしたのは約4年前中国語教室でであった。期間は短かったが同じく1936年の生まれで、メカ好きと言うこともあって本当に親しく付き合いをさせていただいた。本当に惜しい人を早く亡くしたと天を恨みたくなる。
切掛けの最初は知り合いの川村育子さんからの紹介で2002年、中国語のクラスに入れていただいた。毎週金曜日10時半から12時の1時間半、教室の場所は東京目黒区の八雲住区文化センターだった。60歳で退社し昔ラジオの放送で少し齧ったことのある中国語の勉強を再開していたので、丁度良い機会だと喜んで参加したのである。
このクラスの歴史はかなり古く、最初はサンケイリビング(カルチャースクール)で帰国子女の鈴木美恵子先生が担当。受講者は20?30名だったが生徒数減少の為廃止されてしまい、そこで東京オリンピックで優勝したバレーボールテイーム大松博文監督夫人美智代さんを中心とした自主グループが自宅を会場としてスタートし、以来20年余現在に到っている。私が参加した時のメンバーは1933年、東京商大(現一橋大)卒業の同期生男子で当時86歳の西沢、福島、武末氏の3名と女子3名と私(65歳)の合計7人だった。(写真は2003年、教室の仲間の劉敬老師ご自宅での集まり。真ん中の眼鏡をかけるた男性が劉敬老師。自ら腕を振るってあっと言う間に前菜3品、スープ1、主采6品、デザートまで作ってしまったのには驚いた。前菜のピータンと豆腐の和え物が珍しく、スッポンのスープも大変美味であったのが印象に残っている。)
2000年夏、鈴木先生が中国の広東へ移住されることになり、元メンバーの大松さんの推薦で懇意にしておられた劉敬老師を紹介して頂いたのである。
先生は性格は温厚、日本語は堪能で中国外交部の日本語通訳として数々の場面で活躍された。特に有名なのは、1965年(昭和40年)、周恩来首相の依頼で「東洋の魔女」といわれて、世界の頂上を極めた日本女子バレーのリーダーとして活躍された大松博文氏が、上海で中国の女子ナショナルチームを2ヶ月余に亘って指導した際、専属通訳として24時間寝食をともにして苦労をされたのである。おかげで、中国女子チームは5連覇を達成したと言う。以来日本は勝てなくなって久しいのは残念であるが。
誰とでも分け隔てなく接し、明るく穏やかな人柄で、全ての人から愛され慕われた。趣味のダンスのお陰で姿勢もよく、足取りも軽く歩む姿は髪の毛も黒々として、白髪1本も見えず、50歳代でも通る程であった。
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