北京
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紡績工場で働いていた黄宝妹さんは、1953年に紡績工業部初代の労働模範となりました。その後、7回も上海市、紡績工業部および全国の労働模範ともなりました。そのほか、国際会議に3回出席し、毛沢東主席とは8回も会見しました。1958年、著名な映画監督である謝晋は黄さんをモデルにした映画「黄宝妹」を製作し、黄さんはその中で自分自身を演じ、当時の労働者の間でアイドルとして輝きを放ちました。
1931年、黄さんは上海浦東の貧しい家庭に生まれました。13歳の時に、上海第17紡績工場の前身である日本の裕豊紡績工場で未成年労働者として働き始めました。当時、黄さんは夜の6時から翌朝の6時まで働き、仕事終了後は足が痛くて立つこともできないほどでした。そのうえ、ボディチェックまでも行われ、尊厳など全然感じられない時代でした。
新中国成立後、黄さんはいかに多くの糸を紡ぎ、衣服不足の問題を解決するかについて没頭しました。実践を続けながら、ついに先進的な操作方法を見出しました。それによって、一人の紡錘操作能力は400から倍の800にまで増え、生産効率を大幅に引き上げました。勤勉な仕事ぶりかつ卓越した貢献によって、黄さんは1952年11月、中国共産党に加入しました。
1953年22歳の彼女は一人で800の紡錘を操作できることで、上海30万人余りの紡績工場労働者から頭角を現し、新中国初代の労働模範となりました。毛沢東主席が彼女と会見した際、「紡績工場の労働者は全国民の衣服にかかわるとても光栄な仕事で、責任は重大だ」と述べた上で、「一人だけで上手になってはいけない。自分の技術をより多くの人に教えてあげ、みんなとともに成長することがとても大事だ」と強調しました。
1959年、「黄宝妹」や「林則徐」などの映画が新中国成立10周年を祝うために北京に送られました。多くの指導者は「黄宝妹」という映画を高く評価し、黄さんを女優にさせてもいいのではないかと提案しました。しかし、黄さんは自分の演技力がプロの女優とは全然比べられないものであることがよくわかっていたので、この提案を丁重に断りました。26歳の時に、工場の幹部に任命された黄さんは、どうしても幹部の仕事に慣れないと固辞し、元の職場に復帰しました。それ以降、黄さんはずっと定年退職まで工場で42年間勤務し続けました。
定年退職した後、黄さんは新疆建設兵団の招聘を受けて、石河子市にある紡績工場の創設に全力を上げました。工場創設のために、黄さんは工場の設計から設備の購入、紡績労働者の技術養成まで心血を注ぎました。現在、黄さんは幼稚園や工場、コミュニティなどで共産党の歴史を語る講座を行い、一人の党員として自身の役割に努めています。