北京
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日本の遣唐使で、奈良時代の高級官僚である吉備真備(きびのまきび、695-775)の筆跡とされる書が25日、北京で公開されました。北京にある「文物出版社」と筆跡の書かれた墓誌を収集した「望野博物館」(深セン)が共同主催した記者会見で発表しました。
発表会の様子
■日本人直筆の「日本国」としては最古の書
筆跡は734年(唐玄宗皇帝、開元22年)6月、52歳で洛陽で逝去した官僚で、外国からの留学生や使節の接待などをつかさどった役所である「鴻臚寺」の丞(現代でいう「秘書長」)を勤めた李訓の墓誌に残されています。328文字の墓誌の落款には、「日本国朝臣備」の文字がくっきりと読み取れます。古代日本人の直筆による「日本国」の文字としては、最古の記録とされています。また、遣唐使ゆかりの遺物の中では、吉備真備が最も高い官職の人物であったと見られています。
望野博物館・閻焔館長
2013年、深センにある民間博物館「望野博物館」の閻焔館長(47歳)が骨董品市場に流出した後、書の愛好家の間で転々と所有者を変えてきた李訓墓誌を入手しました。その後、6年間の月日を費やして、綿密な時代考証、検証と調査を経て、「日本国朝臣備」は「吉備真備」だと突き止め、その成果物を15枚の写真と5万字からなる書物『日本国朝臣備書丹褚思光撰文鴻臚寺丞李訓墓誌考』として出版しました。
新刊発表会 除幕の様子
『日本国朝臣備書丹褚思光撰文鴻臚寺丞李訓墓誌考』
書名にある「書丹」とは朱を用いて石上に書くことを意味します。日本人留学生により書き写された唐代の墓誌は、今回が初めての発見とされています。
■中日文化交流史研究での意義を高く評価
今回の発表は中日両国の学術界で大きな反響を呼びました。
氣賀澤保規教授
日本から駆けつけた中国古代史研究者の氣賀澤保規教授(明治大学文学部元教授、東アジア歴史文化研究所代表)は、「紛れもなく本物の墓誌」だと話したうえで、「日本国朝臣備書」の「朝臣備」は吉備真備とする閻館長の解釈は「年月日の点から食い違いがない」としました。また、氣賀澤教授は、「遣唐使は書物や文物によって大陸文化を伝来させたという視座から考察されてきたが、この墓誌の発見により、ものだけでなく、書の文化や教養と言った非物質的文化の伝来が考察の対象となる」と今後の研究の方向性を展望しています。
北京大学古代史研究センターの栄新江教授は、「唐は世界各国との交流に開放的な国で、アジア中から優秀な頭脳が集まった長安は精神文化(非物質文化)の集積地だと読み取れる。中日関係は海のシルクロード研究での重点分野で、今回の発見は貴重な史料を提供している。『朝臣備』は35センチ四方の李訓墓誌に刻まれた文字に止まらず、中日文化交流史の記念碑に永遠に刻まれていく」と発見の意義を高く評価しました。
■奈良時代における日本の書の最高峰か
墓誌の原石は35センチ四方の石
墓誌蓋の拓本
墓誌蓋の拓本
今回公開された「朝臣備」の筆そのものについては、氣賀澤教授は「唐代の書家、褚遂良の書法を色濃く受け継いでいることが認められる。褚遂良の書法は大変難しいが、吉備真備はほぼ習得、習熟していたことから、彼の在唐生活の姿勢や生活基盤などに理解が広がる」という見方を示しました。対して、閻館長は「唐代は書家を輩出した時代で、特定の書家の影響を強く受けたとは明確に断定できない。大変風格のある書で、独自の個性を放っている。また、墓誌が書かれた734年という年は、顔真卿がまだ26歳の若手だった。それと結びつけて考えると、『朝臣備』の書は奈良時代における日本の書の最高峰だと見て良いのかもしれない」と指摘しました。
■閻焔館長:更なる研究の広がりに期待
本を囲んでの関係者の記念写真
史料によりますと、吉備真備は695年、岡山県真備町の生まれ。生涯では二度にわたって唐に赴き、中でも1回目は716年に留学生として入唐し、墓誌を書いた734年10月に中国を離れ、帰国の途に着きます。奈良時代の日本では、政権中枢で政務を執り、文化人としての功績も高いものの、日本にはその筆跡を伝えるものは一切残っていないことから、今回の史料はその空白を埋める役割が期待されています。
なお、李訓墓誌は現在、中国では国家級文物データベースに登録されており、公開利用が可能になっています。閻館長は「これをきっかけに、唐代の東アジア交流史研究で両国の学者がもっと豊富な成果を発表することを願う」と今後の広がりに期待を寄せました。
今回の発表会は中華社会文化発展基金会が後援し、北京大学、陝西師範大学、日本の書道団体「瑞雲書道会」などの関係者が参加しました。
(取材:王小燕)