中国人強制連行
ドイツ型の全面解決を目指したい
中国の戦争被害者が日本に損害賠償を求めた初の民間訴訟として知られる花岡裁判は、先日、和解成立10周年の記念イベントが北京で行われ、全国からの関係者及び日本からのサポーターたち100人余りが参加しました。
関係筋の話では、中国人強制連行関連の損害賠償訴訟で、現在裁判が進行中の案件も含めて延べ15件あります。が、2007年4月、日本の最高裁が「1972年の日中共同声明により、中国人個人は裁判上、訴える権利を失った」という判断を示したことにより、今後勝訴の可能性はことごとく絶たれたと見られています。それを背景に、被告側企業と原告側の当事者が法廷外の和解で被害者全員を対象にした全面解決の現実的な意義が増してきたと見られています。
「花岡和解」に続いて、昨年と今年、西松建設の安野事業所(広島)と信濃川事業所(新潟)で強制労働させられた被害者と加害企業との和解も相次いで成立しました。
ところで、日本で「幻」とされた中国人強制連行資料をまとめた「外務省報告書」(正式には『華人労務者就労事情調査報告書』、1946年3月1日、外務省管理局)を真っ先に米国会図書館で見つけだし、強制連行は「政府関与」のもとで進められたという証拠を確定したのは市民団体「中国人強制連行を考える会」です。会の代表で、強制連行損害賠償訴訟の土台を整え、その実態解明及び日本政府の責任追及の先頭に立って闘っているキーパーソンに、花岡和解の意義、今後目指す目標についてお話をうかがいました。
■花岡和解は重要な突破口
――花岡和解成立10周年を迎えて、今のお気持ちは。
和解成立から10年ですが、運動を始めて20年にもなります。和解ができた時はいろいろな批判がありましたが、それを少しずつ克服して今日を迎えられたので、感慨深いものがあります。
――本日の記念式典に、若者の姿もたくさん見られました。
和解成立の時、生存者は86人いました。その後、定期的に会議が開かれる度に、若い人が参加してきています。当事者たちはどんどん亡くなっていますが、彼らの子どもや孫の代が今、参加してきています。
このほか、仲間の老田裕美(中国人被害労働者連誼会代表、天津外国語大学日本語教師)さんの関係もあり、天津外国語大学の学生さんが通訳などとして手伝ってくれているというのも新しい状況です。
――田中さんは長く大学で教鞭をとっていらっしゃいましたが、日本の大学生はどんな様子ですか?
それが大きな問題ですね。今は、もう退職しましたが、大学で授業していた頃、色々話をしてきましたが、積極的に参加する学生は数えるほどしかいませんでした。私の力不足もあり、日本では若者をひきつけるのがとても難しい。それが今、直面している大きなネックです。
――記念イベントでは、「これからも頑張り続けていく」というメッセージが出されましたが、目指す目標は?
戦時中、約4万人の中国人が日本に強制連行され、全国135の事業所で強制労働をさせられました。その中、花岡が986人で、この10年、和解が成立した西松建設の広島・安野事業所(360人)と新潟・信濃川事業所(183人)の人数を合計しても、まだ1500人しかいません。
現在、強制連行に関する戦後補償訴訟は15件ありますが、最高裁による個人の賠償請求権の消滅という判決が出てから、どこまで和解を広げていけるかが、今後の課題です。
また、今、成立した和解は相手がすべて企業です。日本政府の政策決定との連帯責任があるのに、政府は何もしていない。日本の政府もきちんと責任を認めて、関係してきた企業が最終的な全面解決というところまでもっていけることが目標といえます。
――それを具体的に言いますと。
2000年、ドイツでは政府と企業が半分ずつ出資して作った「100億マルク基金」ができ、ドイツがやっていた強制労働の解決が図られました。かつて、日本と同盟国だったドイツには、そういう具体的な例がありますので、ぜひ日本でも、ドイツ型の解決ができたらいいなと思っています。
花岡和解は色んな意味で重要な突破口になったし、現実的に、花岡が無ければ、安野もなかったように思います。
■西松建設・安野事業所、全員の名前が記念碑に
――花岡和歌がベースに西松和解があったとおっしゃいました。
そうですね。西松和解は花岡和解をベースとしつつもいくつかの点で前進しています。例えば、「謝罪」について、花岡の和解条項では、共同発表のそれを再確認するとなっていましたが、西松では和解条項に一本化されました。それから、「後世の教育に資するために記念碑を建設する」と明記され、和解の確認書が双方の代理人間で調印され、「法的責任」という文言についての双方の見解が示され、和解に参加しない人について、本和解がその権利を奪う法的拘束力をもつものではない、ことが確認されました。
――安野の和解成立1周年記念に広島でイベントが行われました。
そうですね。和解金を使って、記念碑を建てました。石碑には360人いる当事者全員の名前、そして、双方の協議と承認を経た銘文が日中二ヶ国語で刻まれています。強制労働をさせた各地の事業所では、記念碑を作った所はいくつかありますが、そのほとんどが命を落とした人の名前だけでした。そういう意味で、これはどこもやっていない新しいやり方で、花岡の後の一層の発展と言えます。
――全員の名前が刻まれることの意義を特に強調しているようですね。
10月23日に行われた除幕式には、中国から40人ほど呼ばれました。その際、ある人は自分の名前、ある人はお父さんの名前、ある人は夫の名前を探していたシーンが地元テレビに映されていました。
除幕式に私も参加しましたが、安芸太田町の町長も近所の人たちも来ていました。地域に住んでいる人たちは、「昔はこういうことがあった」とうすうすと知っていたが、半永久的に名前が彫られていて、本人や子孫たちが来ていることで、歴史が一層明確な形で後世に伝えていけます。
もう一つ興味深いことは、彼らが作った発電所は今も広島市内に電気を送っていることです。135の事業所の中で、当時の建造物が今も運行されているのが、ここだけです。石碑は歴史を語る上の重要な場所になり、貴重な記念物になっていると思います。(つづく)
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