(中原の「つぶやき」コーナーはここ数ヶ月、その半生を北京で過ごした一日本人のちょっとした物語となっています)
…と、北京への旅立ちをややセンチメンタル・ジャーニーなテンポで始めてはみたものの、中国生活もその始まりも、どちらかと言えばドタバタ・コメディーだ。
というわけで、センチメンタル・ジャーニーはここまで。
ここからは、まあ「小噺」といった軽いノリで行きますか。
当時の首都空港と言えば、1995年に始まる第2ターミナルの増築工事や第2ターミナル竣工後の第1ターミナルの改築の前で、1958年に開港した当時からそれほど大きな改修も無く、言っちゃあ悪いが居心地のあまり良くないお役所のようだった。
現在の壮大でシステマチックな国際空港と比べると、正に手作り感満載。
しかし、まだそこでは機械よりもマンパワーの力が信じられていて、日本ではもうあまり感じることのなくなったエネルギーにあふれた国だ、と私は思った。
さて、飛行機から直接ターミナルに抜ける構造がまだ整備されていなかった当時の首都空港。タラップで降り立ったそこはすでに、カルチャーショック的光景が広がるワンダーランドであった。
パスポートを見せればふてくされたお姉さんがぶっきらぼうに回収し、乱暴にポンと投げ返す。(「触らぬ神にたたりなし」とばかりに、愛想の良さ気なザ・オデーブ・アメリカンですら、華麗にスルーするほどだった。今やサービス業の発展も目覚しい中国だが、当時はまだ民営化も進んでおらず、中国民用航空総局が管理していた首都空港ではお客さまよりも公務員さま的職員の方が偉かったのだろう、と私は解釈している)。
どのカウンターにも並ぶ列はなく、見えるのは円状に広がった人だかり。お行儀良く順番待ちをしたところで、「邪魔なおのぼりさん」以外の何者にもなれず、税関一つ超えることすらできない。(しかしこれにもわけがある。1993年までに都市部では食料品などの配給制度が廃止されたが、『遅配』や『欠配』が度々起こる物資の少ない時代に家族を守るためには、人だかりを掻き分けて我先にと争うしかなかったはずだ。そういう制度が廃止されたばかりの1993年。国民のそうした行動は、一種の習慣のようなものであったのだろう)。
中国語が全くわからない私たちは、ただひたすら「シェイシェイ(謝謝/ありがとう)」をつぶやく以外にすべも無く、おまけに中国語はなんだか、丁々発止とケンカをしているような勢いとトーンで顔真正面を通り抜けていくし、もはや中国のイメージがどうだとか、郷愁の念が何だとか、そんなことが脳みそに入り込む余裕すらなくなっていた。(しかしながら、肺呼吸の日本語に対して中国語は腹式呼吸。腹の底から発される声が大きいのは当たり前なのだ。もちろん、中国語を10年も話していればそのうち日本人だって、内緒話も丸聞こえの豪快トークを知らず知らず身につけているのだった)。
とにかく私たちは、飛行機で3時間程度のお隣の国にも関わらず、税関の向こうの北京に足を踏み入れるその一歩手前から、そこが日本とは全く違った場所であることをその身に叩き込まれたのだ。
(この物語はフィクションです。独断と偏見的解釈もあくまでストーリーとしてお楽しみください)
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