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『史記・項羽本紀』⑤~英雄の末路~

2012-08-20 10:14:50     cri    
























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 前回は、項羽の失脚と劉邦の決定的な勝利を決める戦い、「垓下の戦い」と覇王別姫の話をご紹介しました。項羽は800人の騎兵を率いて、包囲網を突破して南へ向かいうところまででしたね。

 漢軍は夜明け頃にようやくこれに気がつきました。漢軍の将校灌嬰は5000人を率いて追いかけ攻めました。項羽が率いた800人の兵士は次第に数を減らし、東城(現在の安徽省定遠県の東南部)に辿りついたときに、項羽に従う者わずか28人になりました。項羽はもう逃れるのは無理だと観念し、部下にこう話しました。「俺は挙兵してから8年経ち、70回あまりの戦に参加し、一回も負けたことがない。これにより、覇王となり、天下を取った。今日はついにここに包囲されたが、天が俺を滅ぼすのだ。戦に負けたわけではない。このことを証明するため、最後に包囲網を破って、諸君に見せるぞ」。

 項羽は28人の騎兵を4隊に分けて、四方に向かって切り込みました。大将を殺したりし、漢軍の兵士を合わせて100人あまりを斬りました。再び集合する時に、項羽が失ったのは2騎のみでした。

 項羽たちは東へ向かって、烏江という長江の渡し場に着きました。ここで長江を渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地です。烏江の亭長(宿場の役人)が舟を泊めて、項羽を待っていました。そして、項羽にこう話しました。「江東は小さいとは言え、土地の面積は数百平方キロ、人口は数十万あります。この地で王となりなさい。この近くで船を持っているのは私だけ。漢軍が追って来ても川を渡ることはできません」。しかし、項羽は笑ってこれをきっぱりと断りました。「昔、江東の若者8000人を率いて江を渡って西へ進んだが、今一人も帰る者がいない。江東の者たちが再び俺を王にすると言ってくれても、彼らに会わせる顔がない。この俺を責めなくても、俺は心の中で恥ずかしくてたまらない。」と答えました。

 項羽は亭長に自分の愛馬騅(すい)を与え、部下と共に、漢軍の中へ突撃しました。項羽一人でさらに数百人を殺しましたが、身体中傷だらけになりました。項羽は漢軍に旧知の呂馬童という将校がいるのを見て、「旧知のお前にひとつ手柄をやろう」と言い、自らの首を斬って死にました。

 ところで、項羽が烏江渡りを断ったことについて、唐や宋の時代の詩人たちが、これにちなんだ詩を多数読みました。その代表的なものを2つご紹介しましょう。

(唐・杜牧)

胜败兵家事不期,包羞忍耻是男儿。

江东子弟多才俊,卷土重来未可知。

戦の勝敗は兵法家でさえ予測はできぬ。

恥をしのびにしのぶ、それこそが男児だ。

江東の若者にはすぐれた人材が多かった。

再起をはかっておれば、事態はどうなっていたか、わかるまい。

 これは、項羽が烏江を渡らず死んでしまったことを残念に思うパターンですね。

 しかし、宋の時代の大文豪であり、政治家でもある王安石は違う見方を持っています。

百战疲劳壮士哀,中原一败势难回。

江东子弟今虽在,肯与君王卷土来?

連戦に疲れはて兵士は悲しみに沈む

中原での最後の敗戦は もはや決定的

江東の若者たちがなお残っていたとしても

君王のために巻き返すことなどしようか

(石川忠久氏訳より)

 唐の杜牧が惜しい気持ちを持っているのと違って、王安石は反対意見を持っていますね。たとえ、優秀な若者が残っているとしても、項羽が今になって、もう人民を惹きつける力がないのではないか、と疑っています。

 項羽は家柄がよく、戦いに非常に強いのですが、自信過剰なところと、まっすぐ過ぎるところ、そして、好き嫌いがはっきりしていて、人に対してあまり寛容ではないところ、とても残虐な一面があります。2つの事例を挙げてご説明したいと思います。

 第3話では、項羽が少数で多数に打ち勝つ戦い、「鉅鹿の戦い」をご紹介しましたね。項羽は各国の反秦軍で、軍事上及び政治上の指揮権を握りました。その後も、項羽は連戦連勝し、秦の総大将・章邯を降伏させました。この時、項羽は20万人以上の秦軍兵士を捕虜として得ましたが、暴動の気配が見えたので、20万人をすべて生き埋めにしました。これは一つ。

 もう一つの例を挙げます。第4話でご紹介した「鴻門の会」の後、項羽は秦の都だった咸陽に入り、劉邦に投降していた秦の最後の王、子嬰一族を殺し、秦の宮殿を焼き払い、宝物や女性を略奪して戻りました。その火は3ヶ月ほど燃え続けたと言われています。

 余談ですが、今年の6月に、西安では兵馬俑1号坑の第3回発掘が行われましたが、現場の様子や出土した文化財から、焼けた痕が見つかりました。火事を起こした最大の容疑者は、何と、項羽だということです。秦の始皇帝が、阿房宮(あぼうきゅう)という、あまりにも大きく、素敵な宮殿を建てましたが、それも項羽に焼かれました。このことによって、項羽は後世の人々に、大きく非難されています。自分の恨みを晴らすために、あれほどの文化遺産を焼き払うというのは、どうかと思いますね。

 ところで、司馬遷は「史記・項羽本紀」の最後の一段落には、項羽を評価する言葉を述べました。その一部を選んでご紹介したいと思います。「。。。自分の覇王の事業を既に成し遂げたと思いこみ、武力で天下を征服・管理しようとしていた。そして、5年間の内戦を経て、ついに国を滅ぼし、自分自身も死んでしまった。それでも、死ぬ前にもまだ悟らず、自分を責めようとしなかった。それは間違っている。『天が私を滅ぼすのだ。戦に負けたわけではない。』と公言した。これはどんなに荒唐無稽なことだろうか」

 司馬遷は項羽の勇敢さを賞賛する一方で、その志のなさや自信過剰、残虐性などを批判しています。褒めるだけでなく、けなすだけでなく両面を描いている司馬遷の「項羽本紀」。イキイキとした項羽の姿が、2000年経っても、私たちの目の前に蘇るようです。

 (終わり)

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