大きな志を持つ不器用な少年
* 項羽の伝記は何故帝王の伝記を記す「本紀」に組み入れられたのか?
「本紀」は「列伝」と同様、「史記」の中で、最も重要な構成部分の一つです。12巻からなっています。司馬遷は「史記」で、伝説の黄帝から、漢の武帝まで、およそ3000年の歴史を記しました。
項羽が帝王ではないのに、その伝記は司馬遷に帝王の枠に入れられました。「本紀」の例外とでも言えます。実は、このような例外は、わずか12巻しかない「本紀」の中に、もう一巻あります。それは、「史記」の中で、唯一女性のために書いた伝記です。主人公は、漢高祖・劉邦の妻、呂太後です。と言うことは、覇権の争いに敗れた項羽でも、劉邦の妻、呂太後でも、皇帝ではないですけれど、皇帝と同じような大きな影響力があるということで、司馬遷は後世の人々、この私たちに伝えたいと思ったと言うことでしょうか?
司馬遷はその理由について、文字ではっきりと説明したことがありません。でも、きっとそうだと、私も思います。司馬遷は人物の伝記を書くときに、ただ淡々と史実を並べるという歴史を記載するルールのようなものにとらわれず、歴史の事実に対する自分の理解を大切にして書きました。客観的な事実の叙述に、司馬遷の見方があり、その人物に対する態度が垣間見られます。例えば、項羽は、最終的に失敗した、悲劇的なヒーローですが、司馬遷は非常に大きな情熱を持って、この悲劇的ヒーローの話を書き上げました。それによって、今の私たちが、歴史から教訓を汲み取ることができる訳ですね。
* 項羽の生い立ち
項籍は、下相(今の江蘇省宿遷市近郊)の出身で、字が羽。秦の統治に反対し挙兵したのは、24歳の時だった。叔父は項梁といい、祖父はかつて楚の国の武将、項燕で、秦の有名な将軍、王翦に殺された人である。項氏は楚の武官の家柄を数世代にわたって守り、項という土地に封ぜられていたので、土地の名を苗字とした。
この第一段落から、項羽の生い立ちの一部の情報が分かりますね。項羽は楚の将軍だった項燕の孫です。項燕は戦国時代末期の有名な人物です。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄でした。
項羽は両親を早く亡くしたため、叔父の項梁に育てられていました。だから、項羽の親のことについて、司馬遷は一切記録せずに、叔父のことを書きました。項羽の成長には叔父さんの影響力が大きかったでしょうね。
* 不器用だった青少年時代の項羽
項籍が小さい頃、読み書きがうまくできないのであきらめた。剣術を習ったが、大成できなかった。叔父の項梁はとても怒った。項籍は「読み書きは人の名前ぐらい書けるなら十分だ。剣術は一人としか対戦できなので、学ぶ甲斐がない。俺は幾千万人の軍隊しか対抗できない本領、即ち、兵法を勉強したんだ」と答えた。すると、叔父の項梁は項籍に軍事の知識を伝授した。項籍は喜んで勉強したが、兵法の内容を大体把握したら、今度はまた中途半端にあきらめた。
項羽は普通の人として勉強すべき知識、例えば、読み書きや武術などは勉強したくないんですが、幾千万人の軍隊と対戦できる軍事学・兵学は勉強したいと言っています。勉強しても、マスターできないので、決して頭のいい人とは言えない、不器用な人がと思いますね。そして、最後まで頑張ることができず、中途半端にあきらめたりして、まあ、志が大きいですが、大した才能がないと言えましょうか。司馬遷の淡々とした叙述から、項羽の姿がいきいきと、読者の私たちに伝わってきますね。
「史記・項羽本紀」では、次のような史実が書かれています。この部分について、司馬遷の原文ではなく、ちょっとまとめたものをご紹介しますね。
叔父の項梁は人を殺して仇を避けるため、項籍と一緒に呉へ亡命しました。呉では地元の上層社会の人々と付き合う中で、叔父の項梁の才能が認められ、首領のような立場となった。項梁は兵学を運用し、知り合いや地元の青年の能力を調べた。
秦の始皇帝が各地を視察し、浙江(今の銭塘江)を渡った時、項梁と項籍が一緒に見物に行った。始皇帝を見て、項籍は「この俺が必ず取って代わるぞ!」と言った。叔父の項梁は「馬鹿なことを言うな。一族皆殺されるぞ。」と慌てて項籍の口を塞いだ。しかし、項梁はひそかに甥の項籍が抜きん出た人物だと見ていた。やがて、項籍は身長八尺あまり(現在の180センチ以上)の長身となり、重い鼎を挙げられるほど迫力のある男になった。地元の若者は皆項籍を怖がった。
叔父の項梁も、甥の項羽も、二人ともみんないい男ですね。項羽が「垓下の歌」で歌ったように、「力拔山兮氣蓋世 力山を拔き 氣は世を蓋ふ(おおう)」。俺の力は大きく、山を抜くことができる。俺の気概は天下を抑えていた。素敵な男性に成長してきました。
項羽が秦の始皇帝を見た時の感想がすごいですね。「必ず取って代わってやる」!赤裸々に野心を吐露していますね。項羽のこの言葉だけ聴いていると、すごいと思いますが、劉邦とくらべてみますと、やはり劉邦のほうが、ずっと用心深くて、大人だなぁと思います。
劉邦は今の陝西省の咸陽で秦の始皇帝を見たことがあります。始皇帝の威風堂々としたパレードを見て、「これこそ一人前の男の姿だ」と語りました。始皇帝を羨む気持ちがあるほか、その裏には、「これこそ一人前の男の姿で、私もそうなりたい」と、項羽に劣らない野望が読みとれますね。しかし、項羽の発言のような、ストレートさ、危なさがなくて、これはまた、すばらしいです。
(『史記・項羽本紀』②へ続く)
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