垓下の戦いと覇王別姫
垓下の戦いは、紀元前202年に項羽の楚軍と劉邦の漢軍との間で、垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)を中心に行われた戦いです。この戦いで項羽が死んだことによって、劉邦の勝利が決定し、楚漢戦争が終結しました。
まず、垓下の戦いまでの流れを簡単にご紹介します。
紀元前203年、長く対峙していた楚漢両軍であったが、楚軍は食糧不足、漢軍は劉邦の負傷や劉邦の父・劉太公が楚軍に捕らわれていたことなどもあり、両軍とも戦いを止めることを願うようになっていました。そこで、漢軍から弁士・侯公が楚軍へ使者として送られ、天下を二分することで盟約が結ばれました。
天下を二分するまでの流れを更に遡りますと、秦が滅亡した後、項羽は自分の根拠地である彭城(現在の江蘇省徐州市)に戻り、西楚の覇王を名乗りました。圧倒的な軍事力を背景に政治上の主導権を握った項羽は、紀元前207年、諸侯を対象に大規模な封建政治を行いました。しかし、土地を与える時、項羽が基準としたのは、その人の功績ではなく、あくまでも自分との関係がいいかどうかでした。ですから、その結果はかなり不公平なものとなり、安定どころか、諸侯に大きな不満を抱かせました。あちこちではまた叛乱が起こりました。項羽の最大の敵である劉邦も漢中から出て、関中を陥れました。いくつかの方面から攻められたので、項羽はまずどれを討つべきか迷っていました。この時に、劉邦から「項羽と敵対するつもりはない」という手紙が来たので、まず他の方面を討つことに決めました。しかし、項羽は他のところで苦戦している間、劉邦は、諸侯と連合軍56万人を率いて項羽の本拠地・彭城を陥落させました。こういった情報操作などを繰り返すことによって、このずるい劉邦はだんだんと項羽に匹敵できるほどの勢力を持つようになりました。
また、話題を天下二分に戻します。素直な項羽はすぐに本拠地の彭城へ撤退し始めました。劉邦は軍師の張良などから、「弱っている楚軍を滅ぼす好機」という進言を聞き、盟約を破り、楚軍の後ろから追撃を行いました。でも、双方は一度交戦しましたが、勝利したのは項羽でした。この交戦に先立って、劉邦は韓信と彭越に共同軍を出すように使者を送りましたが、二人は来ませんでした。劉邦がこれに対する恩賞を何も約束しなかったからです。軍師の張良からその分析を聞き、劉邦はすぐに手厚い恩賞を二人に約束しました。すると、二人は軍を率いて加勢し、漢軍とともに、楚軍を垓下へと追い詰めました。
項羽は垓下に攻められ、兵士の数は減少し、食糧もすべて尽きました。漢軍及び諸侯の軍隊が項羽の楚軍を幾重も包囲しました。夜には、楚軍を包囲した四面の漢軍の軍営から、盛んに楚の民歌を歌っているのが聞こえきました。それを聞いて、項羽は、「楚の土地はもうすべて漢軍に占領されたのか?そうじゃなければ、何故ここにこんなに楚の民が集まっているの?」と思い、ついに絶望しました。
窮地に追い込まれた項羽は、夜中に起きて酒を飲みました。項羽には虞美人という愛する妾がいて、また、騅(すい)という名の愛馬がいました。これらとの別れを惜しみ、項羽は詩を読みました。
力拔山兮氣蓋世 力山を拔き 氣は世を蓋ふ
時不利兮騅不逝 時に利あらず 騅逝かず
騅不逝兮可奈何 騅の逝かざるを奈何(いかん)すべき
虞兮虞兮奈若何 虞や虞や 汝を奈何せん
山を抜くような力と世を蓋う気概をもった項羽も、ついに観念するときが来ました。愛馬騅にもはや駆け上がる気力はない。思い残すのは愛人の虞です。妾の虞と分かれるこの「覇王別姫」のシーンが、京劇や小説、映画の題材とされています。
項羽は何度も何度も歌を歌いました。虞美人も詩を作り、これに唱和(しょうわ)しました。末路にたどり着いたヒーロー、項羽も涙を流し、側近の者たちも皆涙を流しました。
民間では虞美人が項羽と別れた後、自殺したと伝わっていますが、司馬遷の「史記・項羽本紀」には、虞美人に関してはこれだけです。自殺したかどうか記述されていません。その成り行きで考えて見ますと、虞美人は生き残る可能性がなく、自殺するしかなかったでしょうね。
でも、その時の項羽はまだ完全にあきらめていません。突破しようと思ったのです。項羽は夜中に800人あまりの騎兵を率いて、包囲網を破って南へ向かいました。
(『史記・項羽本紀』第5話へ続く)
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