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『史記・項羽本紀』②~頭角を現す項羽~

2012-07-30 15:57:07     cri    
























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 中国5000年。長い歴史には、数々の英雄たちがきらめいていました。秦の末期には、非常にまぶしい光を放った悲劇的なヒーローがいます。項羽。

 秦の末期(紀元前209年)、項羽が24歳の頃、秦の始皇帝の死去や不満の溜まっていた民衆の中から反乱(陳勝・呉広の乱)が起こり、速いスピードで各地へと広がった。同年9月、項羽と叔父の項梁が亡命していた会稽郡(現在の浙江省紹興)の郡守殷通が項梁を郡役所に招き、「長江の西は、すべて農民蜂起軍に圧制されている。秦が破滅してしまうだろう。機先を制する者は他人を抑制し、遅れるものは他人に抑制されるという。私も挙兵する用意があり、あなたと桓楚に軍隊を率いてもらいたい」と話した。その時、桓楚という人は亡命中であった。項梁は「桓楚は亡命中だが、その居場所が分かるのは、一人だけ、私の甥項羽だ」と答えた。すると、項梁は席を離れ、外に出て、項羽に剣を持って外で待機するようにと言い聞かせた後、部屋に戻ってきた。郡守にこう語った。「項羽に来てもらおう。桓楚を探す旨を伝えればよい」。郡守は「よし」と許した。項羽が部屋に入ってしばらく経つと、叔父の項梁から「やるぞ!」という目くばせの合図を受けた。すると、項羽は剣を抜き出し郡守の首を切った。項梁は郡守の首をぶら下げ、郡守の印鑑を奪った。郡役所の役人たちは驚き、パニック状態となった。項羽は100人あまりを殺した。項梁は自分と仲が良い地元の富豪や役人を集め、秦を覆す理由を説明し、軍隊を動員して正式に挙兵した。項梁が会稽の郡守となり、項羽が各県の治安監督を担当する将校となった。

 さて、中国では、「乱世出英雄=乱れた世は英雄を生む」と言われますが、まさにその通りだと思います。動乱の時代になると、生きること、身の安全自体も確保できませんから、大きなリスクを負いながら、人間の潜在的な能力が最大限に発揮できますからね。この乱れた世の中の秩序を、この私が是正できるんだ、という大きな意気込みを感じるんです。きっと!

 まあ、人間は盲目的に流されてしまうか、アクティブに奮い立つか、2つのタイプに分けれれるのかもしれません。項羽はある特定の動乱の時代に作り出された、不世出のヒーローとでもいえると思います。

 項羽は決して頭のいい器用な青年ではないと思います。身長があの時代で珍しく、180センチを超え、およそ190センチという長身でした。力が強くて、威風堂々とした体格でした。恐らく、知恵より体のほうが発達しているタイプでしょう。でも、けっして頭の回転が悪いわけではありません。叔父の項梁が郡守の殷通に招かれ、挙兵の件を任せられた。同時に任命されたもう一人がたまたま亡命中で、居所を知る人は項羽だけ、すると、項羽に探すようにと言いつけるという展開になるなど、項梁と項羽の二人が短い時間に、郡守を殺して権利を奪うという決断をしたのは、非常に危険なことです。しかし、項羽が叔父の目で示した合図一つで、うまくそのタイミングを利用して、郡守を殺したというのが、とても胆力と腕力が要るものだと思います。本当に腕力しかない機転の利かない人ならできませんよ。項羽の果敢な一面をイキイキと見せてもらいました。こんな項羽が挙兵してから、戦に一回も負けることなく、わずか3年で覇王となりました。

 項羽の伝記、紹介を続けます。内容をいっぱい割愛しますね。

 叔父の項梁が戦死した後も、項羽は連戦連勝を続け、楚の国に威勢が響き渡ると同時に、他の広い地方でも有名になった。その時、秦は軍隊の主力を鉅鹿(現在の河北省巨鹿県)に集中し、反対勢力と対峙していた。項羽は指揮下にある全ての軍隊を率いて、漳河という河を渡り、鉅鹿で苦戦していた趙の軍隊の救援に向かった。河を渡ると、項羽は船を河に沈め、料理を作るための鍋や食器を壊し、兵舎を焼いた。三日分のみの食糧を持ち、背水の陣の覚悟で望むよう、兵士に命令した。項羽の軍隊は鉅鹿に到着し、秦軍と激戦を繰り返した結果、大きな勝利を遂げた。この戦いによって、項羽が率いた楚軍は諸侯の中で絶対的な地位を得た。実は、当時、鉅鹿の救援に駆けつけたのは、項羽の軍だけではなかった。各諸侯国からの軍隊が来て、数多くの兵営を作って立て篭もったが、戦う勇気がなかった。項羽が率いる楚の軍隊が秦の軍隊に侵攻した時、彼らはまったく手を出さず、傍観していた。この戦いで数に劣る楚軍の兵士は皆、1人で10人ほどの敵に向かって苦戦し、大きな声を出して、天に響くぐらいであった。それを聞いて、諸侯国の軍隊は皆怖くて震えていた。項羽は秦軍を破った後、諸侯国の軍隊の武将に出頭を求めた。彼らは楚軍の軍門をくぐる時、顔を上げて見上げる者はなく、皆、跪き、ひざがしらをついて進んだ。以来、項羽は上将軍となり、諸侯の軍の指導権を完全に握った。

 この戦いは、鉅鹿で発生したので、「鉅鹿の戦い」と言います。中国史上、少数で多数に打ち勝つ最も代表的な事例の一つです。 秦の総大将章邯が20万人あまりの軍隊を率いて、現在の河北省にある諸侯国趙の国に駐屯しました。これと同時に、章邯は北方の少数民族匈奴の侵攻を防ぐためにもともと万里の長城に駐屯していた30万人の軍隊を南下させました。この軍は王離という将軍に指揮させ、両軍合計50万人を超える大規模な軍隊で、鉅鹿を攻めようとしていました。これは秦の主力をほぼ全部集めた大きなものです。秦が勝利すれば、秦の末期の反抗軍は徹底的に圧制されることになります。このため、各諸侯国から反抗軍も鉅鹿に集まり、共同で秦に対抗しようとしました。人数は30万人を超え、項羽が率いる楚の軍隊が駆けつけてきて、合計40万人になります。

 40万人の反抗軍が50万人の秦軍に対抗する。確かに人数は10万人少ないのですが、大した差ではないんですね。しかし、残念なのは、対抗軍のほうは、30万人が各諸侯国の軍隊で、それぞれの目的があって、ばらばらで一致団結できなかったことです。戦いでも出陣せず、じっと傍観していました。非常に危ない情勢ですので、せめて自分の勢力だけは守ろうという下心があるかもわかりません。しかし、項羽はおそれることなく、いつでも前へ進みました。河を渡って、10万人の軍隊で、直接、30万人の秦軍と対戦しました。

 項羽は自分だけではない、この戦いで生き残らなければ、退くこともできない。全力を挙げて戦わなければならない、ということを、すべての兵士に分かってもらうため、戦意を高める独特な方法を用いました。河を渡って、しばらくして章邯の軍隊の包囲を抜け出した後、乗ってきた船を河に沈め、兵営を作るテントなどを焼き、給食を提供するための釜や鍋、食器を全部捨てたほか、兵士に3日分の食糧だけを配りました。大きな決断ですね。

 司馬遷が書いたこの物語から、「破釜沈舟(釜を壊して舟を沈める)」という成語が生まれました。とことんまで勝利を収めるため、退路を断つという戦術ですし、人の大きな決断を示しています。

 これは項羽の軍事生涯においても、ピークとなった戦いであり、これによって、一気に秦軍に対して、人数の上で優位性を持つようになり、各諸侯国の軍隊も皆項羽の言うことを聞くようになりました。秦を覆す基盤がようやくできました。

 (『史記・項羽本紀』③へ続く)

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