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八路軍の少年兵と八木寛さん その三


八木寛さんご夫婦と北京放送日本語部員(八木さんの北京のお宅で)

 八木さんは1970年、文化大革命のさなかに北京を離れ帰国した。この間の事情について、八木さんは自分史のなかで次のようなことを書いている。

 「帰国にはいろいろの理由がありました。自分の年齢、郷愁、子供たちの成長といった個人的な問題のほかに、いつも心の底にあったのは、中国の民衆の生活レベルから浮きあがっているいわゆる「外国人専門家待遇」です。こうした恵まれすぎた生活を続けていくことが不安だったのです。中国の民衆と苦楽を共にするという初志から離れていくのが不安だったのです……」

 日本に帰った八木さんは、中国の書籍を扱う東京の東方書店の出版部長といういそがしい仕事のかたわら、手弁当で北京放送の普及を主旨とする「北京放送を聞く会」の活動など、日中友好の仕事に汗を流す。

 こうした八木さんのところに、専門家として北京放送にもどって欲しいという知らせがとどいた。文化大革命で外国人専門家が不公平の処遇を受けたことを知った周恩来総理がこうした専門家に正式に謝罪するとともに、原職にもどるようお願いすることを関係部門に指示したのだ。

 こうして二十数年も北京を離れていた八木さんご夫婦が1994年に突然北京に帰ってきた。北京で仕事をしていた息子さんたちが、八木さんに晩年を大好きな北京で送ってもらおうとマンションを買って北京に迎えたのである。ここで、八木さんご夫婦は「改革・開放」のなかで一日一日豊かになる中国の民衆の姿をみて喜び、旧友と再会し楽しく語り会い、ときどき自分史を書き、悠悠自適の毎日をおくった。もちろん、中国側に「ご迷惑」をかけるようなことはまったく無かった。給料とか医療費、住宅費とかの中国側からの支給はなく、すべて自分もち、自己負担だった。そして、2009年12月23日、八木さんは北京で静かに永眠された。享年93歳だった。

 真正的友誼

 中国の民衆と苦楽を共にした八木寛さんの後半生の物語は、ひとまずこの辺で終ることにしよう。

 日本の無条件降伏後の中国の東北地方という特殊な歴史的環境のなかで、中国民衆と苦楽を共にして、中国の革命と建設に力を尽した日本人は、別に八木さんだけではない。百人、二百人という数字でもない。三万人とも四万人ともいわれている。もっと多かったかもしれない。

 これは、中日関係史上に特筆されるべき出来ごとだと思う。中国の民間学術団体である中国中日関係史学会は、こうした日本人をつぶさに取材して『友誼鋳春秋――為新中国做出貢献的日本人』(新華出版社――日本語版『新中国に貢献した日本人たち』(東京・僑報社))という本をだしている。この本の序では、周恩来総理が一九五四年に述べた次のようなことばが引用されている。周恩来総理のこのことばを再引用して、拙文を終ることにしよう。

 八木さんは「たいへんありがたいことです」と感謝する一方「わたしも年をとりましたので、昔のようには働けません。そちらに行ってもお手数をおかけするだけです。わたしは日本で北京放送の普及など日中友好の仕事を続けます」と語るのだった。

 そのごも、何回か八木さんのもとには"老専門家待遇"(中国での生活費、医療費などすべて中国側が負担する)でお招きするという招請がとどいたが、八木さんの返事は変わらなかった。

 「一九四五年八月一五日、日本軍は武器を捨てた。われわれは一五年戦ってきたが、武器を捨てた時から、日本人は中国人と仲よくなり、中国人も日本人を友人としてあつかい恨みをもたなかった。最も生き生きとした事例が東北にある。多くの日本軍人が武器を捨てたのち帰国せず、一部の居留民とともに中国人民解放軍に参加した。病院の医師と看護婦、工場の技師、学校の教官……ほとんどがりっぱに働いてわれわれを助けてくれた。われわれは深く感謝している。……これが友情であり、これこそが真の友情といえる。……これこそがわれわれの友好の種子なのだ。」

 追記:

 八木寛さんのお子さんたち(高橋紫 八木信人 八木鉄 八木章)が父上を偲んでアルバムを作りました。日中両国語で記されたアルバムのなかのことばから幾段か抜き書きして、八木さんのご冥福を祈ります。

 終戦後、父が中国側の要請に応えるため、帰国せず中国に残ったことについて…。

 父は、「私はこの目で日本軍、国民党軍、ソ連軍、八路軍という4つの軍隊を見てきた。その中でも、最も規律が正しく、まじめで正直だったのは八路軍の兵士たちであった。彼らとの出会いに深く感銘し、そして心の底から彼らに協力したいと思い、シナリオライターだった自分の専門分野である映画の仕事から、彼らと共に新しい中国の発展のために仕事をすると決めた。」と当時の事を振り返っていた。

 1949年中華人民共和国成立後、北京放送局での対日放送の仕事をしていた20数年間、父は多くのものを学び、互いに信頼しあう多くの同僚に巡り会った。忙しい日々ではあったが、父にとっては最も楽しく、幸せで、忘れ難い日々でもあった。

――――・――――

 二人の息子が仕事の関係で北京に駐在することになったのを機に、父が中国での日々を懐かしんでいることを感じ、家族みんなで相談した結果、息子の家族たちと共に北京に再び渡り、生活をすることになった。中国が改革開放の時代に突入し、北京も大きく変貌してきた。20数年ぶりの北京での生活は、父にとって以前の中国での体験とは全く違う、激変する新しい中国を実感する日々であり、また、親切な中国の人たちにも恵まれ、ゆったりとした、楽しい晩年であったに違いない。

作者のプロフィール
 李順然、中国国際放送局(北京放送)元副編集長。著書に『わたしの北京風物詩』『中国 人、文字、暮らし』『日本・第三の開国』(いずれも東京・東方書店)などがある。
紹介した『東眺西望』

東眺西望(二十三)
東眺西望(二十二)
東眺西望(二十一)
東眺西望(二十)
東眺西望(十九)
東眺西望(十八)
東眺西望(十七)
東眺西望(十六)
東眺西望(十五)

東眺西望(十四)
東眺西望(十三)
東眺西望(十二)
東眺西望(十一)
東眺西望(十)
東眺西望(九)
東眺西望(八)
東眺西望(七)
東眺西望(六)
東眺西望(五)
東眺西望(四)
東眺西望(三)
東眺西望(二)
東眺西望(一)

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