「一九四五年八月一五日、日本軍は武器を捨てた。われわれは一五年戦ってきたが、武器を捨てた時から、日本人は中国人と仲よくなり、中国人も日本人を友人としてあつかい恨みをもたなかった。最も生き生きとした事例が東北にある。多くの日本軍人が武器を捨てたのち帰国せず、一部の居留民とともに中国人民解放軍に参加した。病院の医師と看護婦、工場の技師、学校の教官……ほとんどがりっぱに働いてわれわれを助けてくれた。われわれは深く感謝している。……これが友情であり、これこそが真の友情といえる。……これこそがわれわれの友好の種子なのだ。」
追記:
八木寛さんのお子さんたち(高橋紫 八木信人 八木鉄 八木章)が父上を偲んでアルバムを作りました。日中両国語で記されたアルバムのなかのことばから幾段か抜き書きして、八木さんのご冥福を祈ります。
終戦後、父が中国側の要請に応えるため、帰国せず中国に残ったことについて…。
父は、「私はこの目で日本軍、国民党軍、ソ連軍、八路軍という4つの軍隊を見てきた。その中でも、最も規律が正しく、まじめで正直だったのは八路軍の兵士たちであった。彼らとの出会いに深く感銘し、そして心の底から彼らに協力したいと思い、シナリオライターだった自分の専門分野である映画の仕事から、彼らと共に新しい中国の発展のために仕事をすると決めた。」と当時の事を振り返っていた。
1949年中華人民共和国成立後、北京放送局での対日放送の仕事をしていた20数年間、父は多くのものを学び、互いに信頼しあう多くの同僚に巡り会った。忙しい日々ではあったが、父にとっては最も楽しく、幸せで、忘れ難い日々でもあった。
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二人の息子が仕事の関係で北京に駐在することになったのを機に、父が中国での日々を懐かしんでいることを感じ、家族みんなで相談した結果、息子の家族たちと共に北京に再び渡り、生活をすることになった。中国が改革開放の時代に突入し、北京も大きく変貌してきた。20数年ぶりの北京での生活は、父にとって以前の中国での体験とは全く違う、激変する新しい中国を実感する日々であり、また、親切な中国の人たちにも恵まれ、ゆったりとした、楽しい晩年であったに違いない。
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