【追悼特集】北京放送リスナー&『人民中国』愛読者の神宮寺敬さんをしのぶ(後編)

2023-04-19 19:14:17  CRI

 

 「友好・平和の遺志を語り継ごう」をテーマに、この春、103歳の誕生日まであと12日で逝去した神宮寺敬さん(甲府市)を偲ぶ特集の後編です。王小燕、斉鵬の案内でお送りいたします。

2019年10月、北京を訪れた神宮寺敬さん(撮影:閻彤) 

◆平和を守る闘士

 1945年8月15日、神宮寺敬さんは日本の敗戦を上海で迎えました。

 「通信部隊で戦闘の主力ではなかったものの、侵略軍の一員として日本の中国侵略に加担しました。申し訳ありませんでした」

 これは、おじさんが初対面の中国人と交流する際、いつも真っ先に伝えることでした。

 おじさんによると、母校の旧制甲府中学の同級生167人のうち、ほとんどが志願や徴兵で戦地に借り出され、約50人が若い命を散らしたそうです。

 おじさんによりますと、戦場から帰った後、「自分だけが生きて帰ってきた」という負い目から、家族に対しても戦争の悲惨さを語ることができなかった時間が長く続きましたが、晩年になって覚悟がついたそうです。

 「若く散った同級生の無念さ、その家族の悲しみ、また二度と教え子を戦場に送るなと叫ぶ恩師の願いを、生き残った者たちで語り伝えたいと思う」

これは2013年3月27日付けの朝日新聞朝刊に掲載された神宮寺さんの投書の一部です。

神宮寺敬さん&綾子さん、1970年代甲府駅にて

 14年、日本政府が集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をした後、おじさんはおばさんと共に反対デモに参加。「戦争は静かにやってくる」と山梨平和ミュージアムの会報に寄稿し、警鐘を鳴らしました。

 同じ年に、日本のメディアからの取材依頼に対し、「二度と戦争させない(したくはない)という点を結論として、取材してほしい」と単刀直入に「条件」を申し出ていました。

戦争への強い警戒心とともに、おじさんには、家族と一緒になった日中友好というライフワークがありました。中でも、北京放送と『人民中国』との出会いによって得た人生の収穫についてはこう述べています。

1966年、『人民中国』雑誌社の招待で初めて新中国を訪れた神宮寺敬さん(2列目左から4人目)

 「北京放送のリスナーになったことにより、世界平和の大切さ、特に日中不再戦こそ世界平和の基であることを知りました」

 「『人民中国』との出会いを機に、日中友好は私の人生そのものと心に決め、家族と共に歩むことになったのです」

1980~90年代、北京放送のスタジオでインタビューを受ける神宮寺敬さん

 おじさんは、約70回にわたり訪中し、中国の友人たちとの絆をつなぎ続けてきました。

 「たとえ細くても個人と個人、民間同士が継続して友好関係の道を閉ざさなければ、国同士の戦争は起きない」とおじさんは話し、確固たる信念を貫きました。新型コロナの下、99歳を超えてもなお訪中を予定していましたが、残念ながらそれはかないませんでした。しかし、おじさんは中国とのつながりを人生の最期まで続けました。

 101歳となったおじさんは21年、中国各地の絵手紙の愛好者と交流したり、両国メディアの取材を多く受けたりしました。中でも、CMGのカメラに向かって話した次のメッセージは、傘下の中国中央テレビを通して中国全土に放送されました。

 「隣国中国と争えば両国が傷つき、友好であれば両国が栄える。全ての問題は話し合いで決め、仲良く過ごしたい。私は自分の体験上、心からそう思っています。そのことは子どもたちにも良く伝えていきたいと思っています」

 さらに念を押すように、「両国が仲良く、世界中が仲良く暮らしていくことを願っています。よろしくお願いいたします」と語りました。

 この最後の一言は決して美辞麗句ではなく、101歳のおじさんが後世に最も残したかった心の声だと、私の胸に響きました。

1994年4月、北京放送・張振華局長(右端)から表彰状「育材の家」を授与された神宮寺さん夫妻

2010年10月、北京放送を訪れた神宮寺さん夫妻

2010年10月、研修生受け入れ25年記念に、北京放送・張富生副局長(中央)から感謝状を手渡される神宮寺夫妻、左端は次女の伸子さん

◆「夕焼けのように人生終わりたし」 

2018年10月、北京で親友の劉徳有氏の自宅を訪れた神宮寺敬さん一行

 おじさんの悲報が伝わり、中国でも多くの人がその死を悼みました。

 親友の劉徳有さんは、「神宮寺敬ご夫妻、ご家族の皆様が作られたこの歴史、いつまでも大事にしましょう。歴史を作るのは人民、歴史を動かすのも人民、このことを固く信じつつ」と、その功績を大きくたたえました。

2019年10月、人民中国雑誌社の若手記者・編集者との座談会に出席する神宮寺敬さん一行

 王衆一総編集長は、「中日の友好とは、結局は人と人との友好です。私たちは、まさに人民友好の旗印の下で神宮寺おじさんと出会い、理解を深め、固い友情で結ばれてきました」と、半世紀あまりにわたるおじさんと編集部との交流を表現しました。

おじさんが北京滞在中に「自分の家」として利用していたホテル・民族飯店の夏敏輝総支配人は、「神宮寺さんの日中友好活動に、微力ながら舞台裏から支えることができたことのは光栄でした」と弔電を送り、別れを惜しみました。

2018年10月、北京放送・馬為公元副編集長から長寿を祝う「寿」の書を受け取る神宮寺敬さん

 長女・敬子さんによると、甲府市で2月17日に行われた告別式では、若い方々の姿も見られました。中国でも、おじさんとの交流会に参加した若者たちからお悔みのメッセージが届けられました。「天国に行かれても、おじさんの生き方は私たちの思い出の中に永遠に生き続けます」、と送られてきたのは、2015年に「95歳の日本人おじいさんと“95后”中国人大学生との交流会」(“95后”とは1995年以降に生まれた世代)を企画した中国人民大学日本語学習サークル「桜花社」の社長で、現在は上海のIT会社勤務の張敏さん(28歳)でした。張さんは「神宮寺おじさんとの出会いは、日本語学習が開いてくれた思いがけない扉でした」と懐かしんでいました。

『人民中国』2023年4月号の紙面から

 「夕焼けのように人生終わりたし」

 これは、現役時代におじさん夫妻と親交を深めてきた元北京放送の李順然さん、鄭湘さん、李健一さんたちが大事にしている神宮寺さん直筆の俳句です。

 ちょうど北京放送とUTY(テレビ山梨)との間で研修生交流事業の話が出た頃、東京支局に駐在していた李順然さんはおじさんの家を訪ねて、研修生たちの泊まることになる部屋を見せてもらいました。

 「初めは神宮寺さん自身の勉強部屋を、後には息子さんが使っていた一番良い部屋を下宿に充てていました。あの日、甲府で見た夕焼けは実に美しかった」と懐かしそうに振り返っていました。

 いま、神宮寺さん夫妻はその美しい夕焼け空に召されました。しかし、世の平和と友好を願うその美しい輝きは、いつまでも世の中を照らし続けていくでしょう。

(※この記事の初出は日本語月刊誌『人民中国』2023年4月号、執筆は王小燕です )

【リンク】

 (音声番組)【追悼特集】北京放送リスナー&『人民中国』愛読者の神宮寺敬さんをしのぶ(前編)

 (音声番組)中日平和友好条約締結40周年記念~二つの家族の50年

 (映像シリーズ)

  ライフワークは中日友好~神宮寺敬さんの北京旅2018~:第一話

  ライフワークは中日友好~神宮寺敬さんの北京旅2018~:第二話

  ライフワークは中日友好~神宮寺敬さんの北京旅2018~:第三話

  ライフワークは中日友好~神宮寺敬さんの北京旅2018~:第四話

 (音声番組)中日友好事業をライフワークに・神宮寺敬さんに聞く

 (中国語映像番組)[听 穿透历史的中国声音]日本的百岁老人为何能有这么多中国朋友

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