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ナビゲーター 黄競
夜の上海 夜の上海 眠らぬ街
ネオンが灯り、音楽が流れ
歌や踊りが世間を飾り立てる
彼女が見せるのは笑顔だけ
心の中の苦悶を知る人はなく
夜の遊興は生きるため
これは1930年代、上海で流行した歌「夜上海(夜の上海)」の歌詞です。レコードプレーヤーから流れる懐かしいメロディーを聞くと、民国時代の上海の繁華街の華やかな様子が思い浮かびます。この華麗な舞台では、波乱万丈の人生劇が上演されました。今回の中国メロディーは、民国時代の上海を描いた音楽をお楽しみください。
華やかな「十里洋場」
上海は、1930年代には既に世界から大都会として注目を浴び、「東洋のパリ」と呼ばれました。特に、上海の「十里洋場」というエリアが大変栄えました。19世紀末、世界の列強はアヘン戦争をきっかけに中国から強制的に土地を租借しました。この時、上海で築かれた外国人居住区が「十里洋場」と呼ばれます。
夜のとばりが下りるころになると、十里洋場の繁華街は一段と華やかさを増します。当時、上海の最もモダンな社交場はこの繁華街にあった「百楽門ホテル」のダンスホールで、ここには上海の有名な政治家や企業家、名家の令嬢、貴婦人などがたくさん集まりました。華やかなネオン、華麗な衣裳、芳醇な酒の魅力は、人々を酔わせました。1930年代の流行歌「夜の上海」は、当時の上海の賑やかな歓楽街のナイトライフや、ダンスホールのダンサーの苦しい生活を描きました。
西洋近代への扉
1920年代、上海は不可思議な魅力をもっていました。その万華鏡のような多面性は、多くの人々を惹き付けました。当時租界では中国人が差別され、「犬と中国人は入るべからず」と言われたように、屈辱的な背景がありました。一方で、租界は多くの中国人に西洋近代への扉を開きました。
当時、上海の上流階級の子女の多くは幼い頃海外に留学し、西洋の教育を受けました。例えば、1920年代、上海の有名な才媛・宋美齢は、中華民国の初代首相・孫文の夫人、宋慶齢の妹で、その高貴な家柄に加え、アメリカでの留学経験によって一層の個性が輝きました。孫文の後任で、民国政府の指導者となった蒋介石も彼女の端麗な容姿と魅力に引かれ、彼女と付き合うために同じキリスト教に改宗したほどです。そして、二人は1927年に上海で盛大な結婚式を挙げました。当時、中国社会に大きな影響力を持ったこの二大家族間の結婚式は世紀のウエディングと言われました。
華やかな世界の裏側での悲劇
民国時代、上海は西洋の冒険家の楽園と呼ばれていました。当時、多くの外国人が上海に暮らし、外国製品が十里洋場に溢れていました。あちこちで見られる洋風の建て物は、民国時代の上海における独特な雰囲気をかもしだしました。一方で、この華やかな世界の裏側では、多くの悲劇が上演されていました。下層労働者や農村から出て放浪する人々、それに失業者たちが飢えと寒さにさらされていました。
1934年に上映された中国映画の名作「漁光曲」は、海辺で生きる漁師の娘・小猫と兄・小猴が上海で苦しい生活を送る様子を淡々と描いています。この映画は1935年に開催された第1回モスクワ映画祭で栄誉賞を獲得、中国映画で初めて国際的な賞をとった映画とされています。映画のラストシーンで兄・小猴は漁をしている最中、大怪我をして亡くなります。その後のエンディングで流れる主題歌「漁光曲」は主演女優の王人美によって歌われたもので、漁師の苦しさを悲しげに語ります。今でも中国で歌い継がれる名曲です。
番組の中でお送りした曲
1曲目~ 夜上海(夜の上海)
歌は民国時代、上海の歓楽街のダンスホールで働くダンサーの生活を描きました。
歌詞:
夜の上海 夜の上海 眠らぬ街
ネオンが灯り、音楽が流れ
歌や踊りが世間を飾り立てる
彼女が見せるのは笑顔だけ
心の中の苦悶を知る人はなく
夜の遊興は生きるため
2曲目~ 我有一段情(恋の悩み)
この歌は民国時代、上海で流行したラブソングです。
歌詞:
恋の悩み
誰にうち明けよう
気心の知れた人
彼が去ってからは
まったく消息が分からない
恋人よ
心変わりしてしまったのだろうか
なぜ連絡がないのだろう
私はずっと待っている
3曲目~ 漁光曲(漁光曲)
歌詞:
雲はただよう 海と空で
魚は隠れる 水の中に
朝日で網を乾かし
吹いてくる風を顔に受ける
潮が満ちて 波が揺れ
漁船は行き交う 西へ東へと
網を撒き 綱を張る
霧の中で必死に魚を追う
魚がとれなきゃ税は重い
漁師の暮らしは苦しくなるばかり
爺ちゃんの残した破れた網を
大切に使ってひと冬を越す
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