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第10弾:老子を知る

2011-10-15 21:01:02     cri    


























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 中国の言い伝えによりますと、老子は紀元前6世紀の人物とされます。春秋時代に当たります。でも、あまりにも言い伝えが多くて、老子が実在の人物なのかどうかすら疑われています。老子は、神話上の人物という意見だったり、複数の歴史上の人物を合わせた人物だという説だったり、歴史専門家の意見も様々です。でも、「史記」を書いた中国一の歴史家、司馬遷が老子の伝記を書いています。と言うことは実在の人物として認めたわけですね。

 「史記」によりますと、老子は、姓は「李」、名は「耳」,字は「耼」。現在の河南省にあたる楚の国の出身です。周の国の書庫の管理者だったということです。書庫の管理者って、今風に考えると、国立図書館の館長みたいですよね。老子はある時、周の国勢が衰えるのを感じ、仕事をやめて牛の背に乗って西に向かいました。函谷関を通り過ぎる時、関守の尹喜(いんき)の求めに応じて、上下二巻の書を書き上げました。その書はもしかして、現在に伝わる「道徳経」なのです。老子のすべての思想を綴ったものです。その後、老子は関を出ました。その後の行方を知るものはいません。

 老子の思想は、現代に至るまで大きな影響を保ち続けています。私たちの生活のいろんな面に深く浸透しています。例えば、「足るの知るものは富む」~"知足者富"。「大器は晩成す」~ "大器晩成"。「千里の道も一歩から」~"千里之行、始于足下"。「天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疎(そ)にして失わず」~"天網恢恢、疎爾不漏"。などなどたくさんあります。このように、私たちが日常に使うことば、しぐさ、ものの考え方など、あらゆる方面には、老子の思想が浸透しているわけです。また、太極拳や囲碁など、いずれも老子の知恵を生かしたものです。

老子とは

 では、老子はいったいどんな人物だったのでしょうか?道教の寺院では、老子が神格化された太上老君が必ず祭られていますが、老子の塑像を見ると、まずその大きな耳に目を奪われます。老子は耳がとても大きいと言われます。中国では昔、親が子供の特徴から子供の命名をすることが多かったんです。その名前の李耳というのも、もしかして体の特徴から来ているのでしょう。

 そして、老子の仕事については、前文ご紹介しましたが、周の国の図書館の館長をしていたんです。仕事の関係で、様々な書籍、書類、文化財などに接するチャンスがあります。普段付き合っている人も、レベルの高い知識人や官僚が多いと思われます。いろいろな条件に恵まれて、深い学問を生む出した哲学者になったというわけですね。

 周の国で国立図書館の館長をしていた老子ですが、周の国勢が衰えているのを感じました。去ろうと決めました。西へ行きたいと決めたので、函谷関という関を抜けなければなりません。その関を守っていた長官は、尹喜という人です。尹喜は学問豊かな人です。占星術などにも精通していると言われます。ある日、城門に立って東の方を眺めると、「紫気」めでたい雲気が東方から漂ってくるのを見ました。そういう雲気は聖人にしか見えませんから、聖人がまもなく通りかかると悟ったのです。そうすると、老子が牛に乗って悠々と来たんです。こんな聖なる人をこのまま行かせては行けない、どうしてもそのすばらしい知恵を残してもらいたいと、尹喜は心に決めたんです。老子はそのリクエストに答えて、自分の知恵を本に綴り、「道徳経」を書きました。数日間かかったと言われます。書き終わって、字を数えると、およそ5000字でした。偉大な著作、「道徳経」の誕生です。上下に分けられます。上は「道経」、下は「徳経」と言います。全部で81章からなっています。伝説によりますと、尹喜はこのすばらしい著作を読んだあと、すっかり魅了されました。老子に「ご高作を拝読させていただいて、もうこの関の長官をやる気が無くなりました。一生貴方のそばで従います」と話しました。

 老子は函谷関を過ぎた後、行方が分からなくなりましたが、言い伝えによりますと、非常に長生きしたということです。160歳まで生きていた説もありますし、200歳まで生きていた説もあります。

老子と孔子の面会

 ところで、春秋時代のもう一人の思想家と言いうと、儒教の始祖、孔子を思い出しますが、孔子は紀元前551年から紀元前479年まで生きていたわけですから、老子とほぼ同時代です。 

 「史記」によりますと、孔子は「礼」について、老子に教えてほしいと願ったことがあると書かれています。孔子は30歳を過ぎると、社会ではすでにある程度の影響力を持つようになりました。でも、孔子はとても謙虚でいろんな知識を学びたいと思っていました。当時、老子はとても有名です。で、孔子は老子を訪ねて、「礼」のことについて教えてもらうことにしました。孔子は魯の国(現在の山東省曲埠あたり)から、周の洛陽に向かいました。

 言い伝えによりますと、孔子が着いた時、目の前にいた老子は、髪の毛を洗ったばかりで、その髪の毛を干しているところでした。古代中国では、髪の毛を含め、親からもらった自分の体を大切にし、傷つけないことが、親孝行の一つと考えられていました。ですから、男性でも女性でもみんな髪が長くて、髪干すのも面倒なことでした。孔子は目の前の光景にびっくりしました。老子は長い長い髪の毛を伸ばして、風に当たってじっと立っています。

 老子は、両目は半分つむっていて、笑顔のような、そうでもないような表情で、寝ているような、そうでもないような感じです。木の葉が落ちても、風に吹かれても、体も表情も動かない、まるで枯れた木のように佇んでいます。こんな髪の毛の干し方を見て、さすがの孔子も呆気にとられました。

 孔子は素直に訪ねました。「先生、本当に自分の目がぼやけて見間違ったとは思いました。けれど、先生はさっきまるで枯れ木と同じように、あらゆる物を超越したような気がします。」すると、老子は微笑み、深い哲学思想を語りました。髪の毛を干す時間に物静かで、虚無で、深い世界に入りました。目の前の俗世間から抜け出し、タイムトンネルに入り、万物が本来始まるところ、宇宙を成り立たせている根本原理である「道」に戻ったと話しました。

 老子と面会して、家に帰った孔子は数日間何も言わなかったそうです。「老子は竜のようだ」と弟子たちに語ったというエピソードを史記に司馬遷が書き残しています。かなり敬服しているようですね。弟子たちはその意味が分からなくて聞き返しますと、孔子はこう答えました。「鳥は飛び、魚は泳ぎ、獣は走る。それは私もよく知っている。そして走るものは網で捕らえ、泳ぐものは糸で釣り、飛ぶものは糸をつけた矢で射落とすことができる。しかし竜は、風雲に乗って天にあがるというが、私にはわからない。老子も竜のような人だった」。これは結構奥の深いコメントですよね。(文:ZHL)

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