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福建土楼

2009-02-19 13:20:55     cri    

 福建省西部は山々に囲まれ、都市の喧騒から遠く離れたまるで桃源郷のようなところです。世界に数千万人ともいわれるハッカ(客家)人の祖先の地、ハッカ人の魂と夢が交錯する地でもあります。その特殊な歴史そして地理的環境の影響から、山間部に世界でも唯一無二の土を固めた大規模な民間建築「土楼」が生まれました。現在、福建省には3000余りの土楼が残っています。なかでも永定、南靖、華安県にある42の土楼は最も完全な形で保存されているだけでなく、建築の質も最も高く、最も美しいものです。2008年7月、ユネスコにより世界文化遺産に指定されました。

 福建省西部では土楼の数、類型とも数多く、様式にも独特の風格があり、中国の民間建築で独自の地位を築いています。こうした土を材料に建設した家屋では、施工方法は主として焼成していない粘土と砂や土を一定に比率で混合し、それを打ち固めて堅牢な壁にし、梁、柱などの枠組みは木材からなっています。

 福建省西部の土楼を初めて目にしての驚きはその膨大な建築の姿です。形態はシンプルでも、幾何学的な感じが比較的強く、円形や方形が一般的ですが、楕円形や八卦、半月、多辺形で平面的なものもあります。このほか、屋根の庇の高低が異なる多層的な「五鳳」楼もあります。

 土楼は一般に2-6階に分かれています。1階には基本的に窓はなく、2階以上に小窓が多少開かれているなど、軍事防衛的な色彩が濃厚です。建築上の機能的配置を見ますと、通常は1階が厨房に食事する場所、2階が倉庫、3階以上が寝室。外壁の基礎の厚さは通常3メートル。底層の厚さは1.5メートルで、高くなればなるほど薄くなっています。外壁の内部は木板で幾つかの部屋に仕切られており、さらに中に進むと回廊があり、中心部は宗祠、私塾あるいは舞台となっています。土楼は外部に対して極めて閉鎖的ですが、内部に入るとまったく別天地です。すべての部屋は連なる廊下を通して内側に開かれており、非常に人情味に溢れた「中庭」となっています。土楼内をゆっくり歩くと、対聯や文字、絵画がよく目に飛び込んできます。

 福建省西部の土楼のなかで数量が多く、面積が大きいのが、方楼に円楼そして五鳳楼です。

 方楼は永定県で最も広く見られます。構造は簡単で、平面あるいは正方形、あるいは長方形、あるいは「目」の字の形をしています。現在知られている最大の方楼は、永定県高陂鎮の「遺経楼」。清代咸豊元年(1851)に造られ、建築面積は約4000平方メートル。3代、70年以上の歳月をかけて建設され、地元の人は「大楼厦」と呼んでいます。

 園楼は福建省西部の土楼のなかで最も有名です。山中深く数世紀にもわたり埋もれていた土楼は世に知られるや、大きな反響を呼びました。円楼の形態は一重、多重、正方形の土楼を円形で包んだ形のものなど様々です。多く見られるのが多重楼。中心軸に沿って円形が伸びていき、楼自体は外部が高くなっても内部は低く、楼内に楼があり、楼そのものが積み重なっているようです。中心部には一般に祠堂があり、すべての民族の人が重大な活動を行ったりする公共の場となっています。永定県に現存する円楼はおよそ360。そのなかで年代が最も古く、階層の最も多いのが「承起楼」。

 五鳳楼は福建省西部の土楼のなかでも特殊な存在です。中原の住宅形態に最も近いものは、ハッカ文化の中心をなしている地域に数多く見られます。中原の礼儀・道徳文化の影響をかなりの程度反映しており、中原の民居である四合院(庭をはさんで4つの棟が並ぶ家)が福建省という特殊な環境の下で変遷した産物と言えます。イメージ的には、威厳があって整然とし、高低の落差があり、正面から受ける迫力は北京故宮の午門を彷彿させます。五鳳楼のあるところでは、礼儀・道徳がことのほか重視されており、民族の大半が子どもたちに学問で功名を立て、民族に栄誉をもたらすよう大きな期待を寄せています。永定県湖坑鎮洪坑村にある「富裕楼」はまさにその典型的な五鳳楼です。

 民族が同居している、というのが土楼の基本的な特徴であり、中原の漢民族の伝統的生活方式とまったく似ています。宗教的な雰囲気が色濃く、設備も完備されて、一つの厳然とした小社会が形成されています。族長は徳が高く信望の厚い長老が担っています。 ハッカ人の祖先は中原の漢人ですが、長い移動の過程で、たとえば言語や服飾、生活習慣といった彼らの文化が南方先住民との相互交流を余儀なくされるなかで、相対的に言えば中原の正統な文化は変異していき、それに加え、朝廷の権限が及ばない遠隔地であることから、ハッカ人の多くの集落の管理は少数民族自治の状態と似たものになり、「土着化」の傾向を呈するようになります。このため、ハッカ人は自らを漢族の子孫だと強調しましたが、古代の中央の統治者はハッカ人をその他の少数民族と区別して扱うようになりました。一律に「南蛮」と決めつけ、政治的な圧力を加え、軍事的に攻撃したり、文化的に敵視したりするようになったのです。こうしたことから、ハッカ人の間に自己防衛意識が強まっていきました。また、民族間の小競り合いや衝突も頻繁に発生し、しかも地元の権力組織の管理に限界があったこともあって、ハッカ人は安全面から砦に似た土楼に住まざるを得なくなったのです。

 いま一つの際立った特徴は「情理の共生」です。人と人、人と集落の環境との有機的な整合性、緊密な共生関係が具体的に表れていることです。伝統的な農業社会では、良好な「心情」は民族の同居という温かな人間関係、文教を重んじる伝統的な家族の血縁と隣人としての地縁、定着地の重視、調和のとれた美学思想、「礼」という道徳の尊重などに体現されています。良好な「生態」は一方、建築の自然への順応、地域環境の生態均衡の維持、土地の保護や節減、生態系の保護への重視などに体現されています。

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