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広州アジア大会話題5:歴史の名城ーー広州

2009-05-04 11:53:41     cri    




















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 広州は「三朝の古都」と呼ばれていますが、この三朝、つまり3つの王朝とは南越、南漢と南明を指します。

 1976年から広州の考古学や歴史研究に携わっている広東省文史研究館の黄ミャオ章さんは「広州は風水的に見てもとてもいい場所だ。広州は南に海を臨み、越秀山を背景にしている。紀元前214年、秦の始皇帝は嶺南地区を平定するために、5つの部隊を派遣した。そのうちの1隊は広州まで進み、珠江と白雲山の間にある平地に町をつくった。この町は番禺城と呼ばれ、広州につくられた最初の都市だ」と語りました。

 紀元前206年、秦が滅亡しました。その2年後、秦の時代の大将であった趙佗は番禺を都として、南越国を建てました。この南越国の領土は現在の広東省と広西チワン族自治区の大部分、そして福建、湖南、貴州、雲南の一部の地域、さらにベトナムの北部も含まれていました。南越国ができて、嶺南地区の社会が 安定するようになりました。また、進んだ生産技術と政治制度が導入されることで、この地域での生産力が高まり、社会が発展しました。毛沢東主席は趙佗を、「嶺南を開発した立役者だ」と評価しました。広州の歴史に詳しい黄ミョオ章さんは、「趙佗は中原地区から多くの人を連れてきた。この人たちは進んだ文化と農耕技術を持っていたので、その文化と技術で嶺南を開発した。そして広州の経済はますます発展していきた。そのことからこの時期を嶺南大開発時期と呼んでいる」と述べました。

 さらに、文献に記載された内容と出土品によって、南越国が嶺南文明の基礎だということが証明されました。1983年、南越国の2代目の王で、趙佗の孫である趙眜の墓が広州の越秀区で発見されました。これは今まで、嶺南地区で発見された墓の中で、最も規模が大きいもので、出土品は1000点以上に上ります。このことから、この墓は近代中国の考古学上の5大発見の一つとされています。

 南越国は、最後に漢王朝に滅ぼされ、正式に統一した中国の版図に組み入れられました。南越国について、広州博物館の歴史研究者の黄慶昌さんは、「三つの王朝の中で、南越国は広州発展のための基礎をつくったといえる。南越国のおかげで、広州は大都市へと発展するための第一歩を踏み出せた」と評価しました。

 唐の時代の後、中国では10余りの地方政権が現れました。10世紀頃、劉隠が嶺南地区で南漢を建国し、番禺を都と定めました。その領土には現在の広東、広西チワン族自治区、海南、湖南と貴州の一部、及びベトナムの北部が含まれています。南漢はわずか55年しか続かなかったにもかかわらず、重要な歴史的な時期と見られています。南漢の時代、自由貿易を行い、特に対外貿易が大きく発展しました。そのため当時、番禺は中国で最も豊かな町の一つとなりました。三つの王朝の最後の一つ、南明は、1646年、朱聿イツ(金へんに「粤」と書く)が番禺で皇帝の座についたことから建国されましたが、わずか40日後に滅ぼされました。しかし、南漢時代の発展があるからこそ、その時期に広州の嶺南地区での政治、経済と文化の中心地という地位が確立されたのです。

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