「中国改革開放第一村」小崗村の30年(上)
中国の農村改革は今からちょうど30年前の1978年に、安徽省北部の鳳陽県・小崗村でスタートしました。
当時の中国は、農村の人々が人民公社という形で、集団でしか働けませんでした。1978年、旱ばつもあり、毎年のように国からの救済に頼っていた小崗村は、再び食糧不足の年を迎えました。こんな中、18世帯の農家の人たちが立ち上がりました。
彼らは、労働と成果が直結しない集団労働をやめ、村の土地を農家に請け負わせる制度をこっそり始めました。このやり方は、昔の小農経済に後戻りしたのではないかと批判の声もありました。しかし、この制度で、小崗村の生産高はこれまでの4倍に増え、村は初めて国の救助に頼らず、食糧を自給し、しかも、納税できるほどの余裕もできました。
小崗村はこうして、「中国改革開放第一村」と呼ばれるようになり、中国の改革開放のプロセスにおいて、特筆すべき村となりました。
さて、こんな栄光の歴史がある小崗村は、改革開放30周年にあたる今年、再び内外から高い注目を浴びています。今回も同じく土地使用制度の改革で話題を呼んでいますが、30年前とは正反対に、今回は個々の農家に分配された土地をもう一度集約させて、大規模経営を図ろうとする動きです。
小崗村にとって、この30年、どのような変化が起きたのでしょうか。その変化から、中国農村のどういった現状が映し出されるのでしょうか。
■農村改革のスタートを切る
中国中部の安徽省ジョ州市鳳陽県は、14世紀、明王朝を築いた朱元璋皇帝の故郷として知られています。歴史的に見ても、河川の氾濫や旱ばつが起こりやすく、自然災害の頻発している地域でした。度々凶作に見舞われ、郷里を離れて物乞いの旅に出た人も多かったそうです。
ワイ河流域に位置する小崗村は人口約500人の村です。1978年、土地請負をテスト的に導入した後、村民たちは確かによその村より少し豊かになりました。しかし、それはあくまで衣食の面のことだけでした。
中国東部や南部の農村は改革開放の後、相次いで工業や商業で村おこしをする道を歩み始めました。「郷鎮企業」と呼ばれている工場を起し、大きな富を手に入れました。しかし、小崗村は相変わらず昔ながらの零細農業が中心でした。最初の5、6年は成長していたものの、その後20年あまりにわたって、大した変化もなく、発展の歩みが停滞していました。
もっとも、この間、小崗村も郷鎮企業を相次いで立ち上げてみましたが、いずれも失敗してしまいました。1993年、村に「農業実業総公司」が創設され、相次いで、瓶の蓋の工場、電子測量計器工場、小麦加工工場、バイク用ミラー工場、銅線工場、食用油工場などを立ち上げました。しかし、成功した試しはありませんでした。小崗村はついに独自の企業を有すことなく、集団で動かせる資金源もありませんでした。村にはビルは見られず、道路を整備する資金もなく、電話、水道、工場、学校すらありませんでした。
■「郷鎮企業」の発展に失敗
さて、小崗村の産業は何故成功しなかったでしょうか。様々な制約要素が考えられます。
まず、ハード面の制約です。道路の不備で、村から県庁所在地の鳳陽県までの30キロは、車を走らせても、約1時間はかかります。
次に、土地が狭いことです。小崗村の土地面積は1800ムー(およそ1万2000アール)しかなく、大規模な工業生産には適していないと見られています。
また、ソフト面においては、村に人材が不足しています。大学もしくは専門的な技術研修を受けたことのある働き手が少ない上、若者の農村離れも進んでいます。
「若い人は農村に残りたくありません。小崗村は500人足らずの村ですが、町へ出稼ぎに行っている若者は90人もいます。」
さらに、村の管理モデルの問題です。村を取り仕切る「書記」のポストは省からの直接任命となっています。この中に、もともとはこの村出身の人もいれば、そうではない人もいます。これに対する村人の感想です。
「幹部は二三年で任期が終るので、計画がまだ実現されてないまま、異動してしまいます。もしも、村人の自治ができれば、様子は違っていたと思います。」
これまでには「小崗村」という大義名分で国から資金を申請したものの、実際に村以外の土地で工場を作った例もありました。省から派遣されてきた幹部に対し、村人は懐疑的な目で見ているようです。
■豊かになる道を模索する
一方、改革開放当初、農民に食糧を確保した土地請負制度は、改革の進化に伴い、限界が見えてきました。
元村長・厳俊昌さんはこう話しました。
「請負制は衣食の問題を解決してくれましたが、この制度だけでは、村人を豊かにすることができません。」
1997年、小崗村出身の厳徳友さんが村の書記に任命されました。
「農家一世帯の頑張りだけでは、これ以上の増産と増収は期待できません。」
この時から、中国の農村では、出稼ぎ労働がブームになり、小崗村も例外ではありませんでした。村には耕作が放棄した耕地が目立つようになりました。1999年、村は技術の見習いに村人10数人を外部へ派遣しました。これがきっかけとなり、出稼ぎに行く人が年々増え、耕作を放棄した自分の土地を人に貸す人が現れ始めました。
「中国改革第一村」という誉れをもつ故郷を豊かな村にしたい。「現状を打開する道はどこにあるのか」、厳徳友書記は考えを練り始めました。
「土地をもう一度集約して、観光開発や大規模経営をすれば、収益がアップします。また、土地を耕さない村人も土地を貸すことで現金収入が入ります。」
しかし、この考えは思ったよりもスムーズに進めることができませんでした。
「わが村は、中国で最初に、農家請負制を始めた村です。過去の栄光を捨てて、歴史を後戻りさせる気ですか。」
村人から反対の声が上がりました。鳳陽県の人民代表大会の責任者も立ち入り調査に入り、厳さんの改革案は頓挫してしまいました。
中国では、土地の私有化を認めていないため、農民は保有しているのは土地の使用権のみです。土地の所有権は国有か、村の集団所有です。一方、土地の使用権、つまり、請け負っている土地を使って経営を行う権利は、それまで自由に譲渡したり、流通に出したりすることについての明確な法律がありませんでした。このことが、厳さんにとって計画を実施する上の一番のネックでした。
小崗村で土地の集団経営に向けての試みが頓挫する時、一方、浙江省など一足先に経済の発展ができた省では、多種多様な形で土地使用権の譲渡がなされていました。
これらの変化を背景に、厳さんはようやく2001年、1ムー500元の値段で土地80ムーを集めることができました。小崗村で、土地使用権を流通に出す突破口ができたのでした。
厳さんはその土地を使って、ぶどう園を経営し始めました。今、村の入り口に広がっているぶどう園の始まりです。
「稲や小麦を作る場合は、1ムーあたり5、6百元の収益しかありません。しかし、葡萄だと2000元も利益が入ります。」
厳さんのぶどう園は今、倍増して180ムーに拡大し、村人十数世帯から土地を借りています。その後、村には葡萄栽培のための合作社という互助組織が立ち上がり、葡萄の栽培面積もどんどん拡大しました。今では、村の全土地の三分の一がぶどう園になりました。さらに、小崗村は5年前から地元のジョ州市や、安徽省の省都・合肥で葡萄祭りを行い始めています。(つづく)
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