原点は母から受け継いだ「百科事典」
中国瀋陽生まれ。1989年吉林大学卒。1994年?1995年一年間東京大学で表象文化を研究。映画のウルトラファン。"遊び心の塊"と自称し、中日両国民の相互理解を促進するための雑誌「人民中国」を作りながら、コミュニケーション、映画、翻訳学、大衆文化など多岐にわたる研究をしている。
**********************************************************************************************************************
北京に住む王衆一さんの自宅を訪ねた。夕食を終えた頃、王さんが大切そうに取り出してきたのは、1冊の日本語の百科辞典だった。半世紀の時を経てセピア色になったその百科辞典は、王さんが幼い頃から傍らにあったという。日本語は分からなかったが、精巧な挿絵や多色刷りの頁があるそれは、少年にとってとても魅力的だった。
そこで中学、高校では外国語に日本語を選択した。1981年、大学受験に際し、母は理工系で進学するよう勧めたが、結果は惨敗。ところが王さんの日本語の成績は遼寧省の高校生の中でなんと2番。翌年日本語専攻を希望にして再受験すると成績はトップだった。「不思議なことに日本語はどんどん頭に入ってしまう」。百科事典から受けた日本語への思いが、王衆一さんに奇跡的な力を与えたのかもしれない。
王衆一さんの母、趙乃才さんは、当時女性としてはとしては珍しかった日本への留学生だった。1940年から45年まで東京女子医専に学んだが、ドイツ語の授業を日本語でノートに記すと、クラスメートの日本人がそれを借りにくるほどの優秀さだった。帰国後は薬理学の研究者として働いたが、その後、文化大革命時代になると、日本に関係があるということで辛酸を舐めることになってしまう。「息子には日本語を専攻してほしくない」、それが母の願いだった。しかし日本から持ち帰った百科事典は息子の心を捉えてしまった。
大学院卒業後に就職したのは中国政府所轄の「人民中国」という雑誌社だった。50年にわたり中国で発行を続ける日本語による月刊誌だが、時代は刻々と変化し日本にも類似の雑誌が次々と登場している。雑誌をどう舵取りするか、王さんは今、その大任を負う。日本人の読者のニーズに応えながら、いかに中国政府のメッセンジャーという役割を果たすか、接点を模索する。
中国を日本に伝える場の第一線で働く王さんを、今では母親の趙乃才さんが一番に応援してくれている。息子の手がけた雑誌や原稿に丁寧に目を通し、感想を述べてくれるのだ。文革後、趙乃才さんとその同級生たちの交流もまた復活した。1995年のこと、日本から母宛てに一通の封書が届いた。「ずっと借りたままになっていたノートをお返しします」。母が留学生だった頃記した日本語の講義ノート。それを友人は大切に保管していてくれたのだった。50年の時を経ても変わらぬ友情が、海を渡って届けられたのである。
「戦争という不幸な過去はあっても、人と人との草の根のつながりはそれを越えるんですね」、王衆一さんは母から受け継ぐ思いを胸に秘め、そのかけ橋になる仕事を誇りにしている。1冊、1冊、日本人の心に届く雑誌作りに取り組み続けている。 (文責:満永 いずみ)
|