張 麗玲さん
新作取り組み中
「ドキュメンタリーの卒業作品にしたい」
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1999年、あるドキュメンタリ・シリーズが中国と日本のテレビで放映され、両国の人々の心を揺さぶった。中国人自費留学生たちの日本での生活を4年あまり密着取材して、制作した『私たちの留学生生活ーー日本での日々』だった。製作者の張麗玲さんは、今、株式会社 大富(中国中央電視台[CCTV]、香港無線電視台[TVB]の番組をCSスカイパーフェクTV ! を通じて、24時間放送する会社http://www.cctvdf.com/j/)の社長に就任。経営者の仕事を堪能するようになった張さんは、実は、その後もカメラを回し続けていた。10年間に亘り撮影し続けている作品は、主人公の夢の実現に伴い、ようやくエンディングを迎えることができ、現在、秋の完成とテレビ放映に向けて、最終仕上げに取り組んでいるとのこと。
ドキュメンタリー制作にかけた張さんの深い思い、そして、新作情報について話を伺ってきた。
■ドキュメンタリー制作の原点:成田には着いたが…
1989年6月、張さんは不安を抱えたまま、大連経由、成田行きの便に乗った。予想以上の不安に襲われたのには、事情がある。新しい出国カードへの切り替えで、手続きに不備が出たため、本来の出発日の翌日の便で出国することになったからだ。
国際電話の回線が限られており、交換手経由で申し込まなければならなかった時代だった。結局、日本の知人に知らせることもできないまま、翌日の飛行機に乗り継いだ。言葉はまったくしゃべれなかった。「隣席の男性から日本語で話かけられたが、『セクハラだ!』と、体が強ばった」。今思えば、ただの「こんにちは」程度の挨拶だったかもしれない、微笑ましいシーンだ。
懐には現金8000円(政府が容認した外貨換金額)と少量のドルを所持していた。何せ、中国で大学卒の初任給は70元台(当時の為替レートでは、3000円未満だった。一方、当時、日本の初任給は15万円前後だった)、日本とうんと格差の大きい時代だった。
知人が迎えに来てくれるかどうかわからない、頗る不安の中、成田空港でひたすら待ち続けた。
「時間があったので、人間観察を始めた。人々の表情は、実に面白かった。そして、いつか、映画を作らなくちゃいけないと思った!」
長い時間が過ぎていった。「張麗玲さん」と書かれた厚紙を手に、「この世で一番格好いい人と思った」背の高い男性が現れた。知人が遣してくれた人だった。
「私は恵まれた方だった。大部分の自費留学生は、持ち合わせの8000円を使い切るまでに、バイトを見つけ、落ち着かなければならなかった。」
成田空港でのおぼつかない思い出が、後のドキュメンタリー制作の原点になったと言う。
■日本へ:「出国したい!」
1980年代後半になると、出国ブームが中国を襲った。
「出国しない人は能力がないと思われていた。それなら、私も!と思った。しかも、出国大群の中には、30歳以上の人が目立っていた。まあ、たとえ何もできなくても、2年ほどで帰国すれば、まだ彼らよりも若い、と半ば安心もしていた。」
北京にいた頃は、花形の女優だった。生まれは浙江省の山村で、少女時代と青春時代はこの世の「天国」と言われた杭州で過ごした。両親は文革時代の思い出が残留し、「いつかまた政治運動が巻き起こったら」との心配から、娘の外国行きには賛同しなかった。やっと同意はしてくれたものの、「アメリカは遠すぎる。何か起きたら、すぐに中国に引き上げることは難しい。どうしてもと言うのなら、近くの日本にしなさい」と、ぎりぎりの妥協だった。日本では「留学生10万人受入計画」で盛り上がっていた時代である。
中国と日本の格差が大きく、日本で少々バイトをするだけで、中国の一ヶ月分の給料以上の収入をゲットできた時代だった。日本語学校の同級生たちには、学校にも行かず、バイトに専念した人も多かった。「それだけ、バイトしながら、勉強を継続することが大変だった」。幸い、大学の先生も含め、様々な人のサポートを得、モデルや撮影スタッフなど数多くのバイトをこなし、自費留学を全うした。「最初は2、3年のつもりで、すぐ帰国する予定」だったが、ついに、大学院まで進学。1995年、東京学芸大学大学院を無事卒業。専攻は舞台演出だった。
「今は、当時の留学組は富を積み重ね、豪邸を購入した人も多く出たが、皆、口をそろえて、最初の一年は一番忘れられないという。」
かつての自分も経験してきたおぼつかない思いを、いつか映像作品にして表現する。その思いが張さんの胸の中で膨らみ続けていた。
■夢に向かって突進:商社勤めと映画製作の両立の裏
「どうせなら、日本の一番古い会社で働いてみたい」。こう思って、就活を始めた。しかし、意中の一社しか受けるつもりはなかった。採用されなかったら、即帰国しようと思っていた。白羽の矢を立てたのは、130年の歴史を持つ大倉商事。「ここで働けば、日本の伝統を知ることができる」と思っていたからという。
採用が決まったが、何故か配属先は食料部だった。「英語力が弱く、自分が中国人である取り柄をまったく発揮できない。何故?」と本人は困惑した。
後日になり、人事担当の専務に大きな発想があったことを知った。「中国はこれから世界で通用する人材が必要となってくる。この部署で経験を積み、将来中国に帰って、国の発展に役立ってほしい」と。「日本には、こんなに素晴らしい人物がいる!」。今でも思い出すと、感激の気持ちを隠さない。
一方、会社勤めとは、張さんにとって、夢への本格的な挑戦を意味していた。入社した年の年末、ドキュメンタリーの制作に本格的に乗り出した。昼間は普通の勤務、夜は寝る時間を削っての撮影や編集作業。その一部始終は、フジテレビ2002年12月放送のドキュメンタリー『中国からの贈りもの』で如実に記録されていた。
撮影を開始する前に、会社に事情を説明した。許可はもらえたものの、同僚には迷惑をかけないことが条件だった。そのため、徹夜の翌日、一言でも「顔色が悪いね」と同僚から言われたら、直ちに化粧室に飛び込み、口紅をぬりなおした。「絶対に心配させてはならなかった」。
慌しい毎日だった。忙しく駆け回る自分に同僚たちの怪訝な視線を浴び、事情説明の必要性を強く感じた。ついに、撮影開始半年後に、デモテープを作り、専務室に持っていった。
「ご覧になる時間を教えてくだされば、通訳を付けます」。しかし、専務から返された言葉は、「本当に良い作品は通訳なんか要らない」だった。
土日明けての月曜日の朝、さっそく専務に呼ばれた。常務や部長数人も一緒に呼ばれた。
「素晴らしい作品だった。人間らしさがにじみ出ている。社員に欠けているものを持っているキャラクターだ。こんなに素晴らしいことをやっているのだ、これからも頑張りなさい」と、絶賛された。さっそく、社内放送で、社内放映会がアナウンスされた。このようにして、回りの理解を得、撮り続けることができたと振り返る。
■ドキュメンタリーの卒業作にしたい:『泣きながら生きる』
『私たちの留学生活』は日中両国のテレビ局で放映され、大成功を収めた。その後、姿を消したかのように思われているが、実は、撮り続けている作品がある。
自分の人生は見限ったが、一人娘の教育のために、捨て身で頑張り続けた父親にスポットを当て続けた。不本意にも、一時期不法滞在者として日本に滞在していたが、娘をアメリカの名門大学に進学させることに成功し、今や自分の使命が果たせたとして国内に戻り、15年振りに、妻と二人で穏やかな暮らしをしている男のストーリーだ。
10年間撮り続けてきた作品だった。主人公の悲願達成を機にピリオドを打つことにし、編集に取り掛かった。素材テープだけでも数百時間の膨大な量である。成り行きの予想がつかないため、これまでは編集せずに、もっぱら撮り続けていたのだ。編集には、すでに約一年間を注ぎこんだ。ようやく、今は総仕上げの段階を迎え、今秋、2時間以上の作品として、フジテレビでの放映も決定した。
「こんなにたくさんの涙を流した作品は初めてだ。『男なるもの』について、考えさせる。男性にとくにお勧めで、タイトルは『泣きながら生きる』にした。自信作だ」と胸を張る。
精力的な制作活動を支えたのは、人一倍強靭な自らの意志だった。前作も、「週に二回しか寝なかった」という驚異的な日々を続けた。ついに倒れて入院したこともあった。しかし、同年代の人に比べて、徹夜作業は得意だと自慢げに話していた。体の不具合や病苦に耐えながらも、仕事を続け、落ち着いた笑顔を絶やさなかった。特技と言えるには訳がある。徹夜の後で顔に吹き出物が出たり、しわが増えたりすることはなく、薄化粧だけで元気溌剌に見える。
新作について、「ドキュメンタリーの卒業作品にしたい。もうこれ以上の作品は作れない。それに、体力がもう許さない。今度作るなら、映画やドラマを作りたい」。創作の意欲が衰えることはない。
2000年、張さんの作品がフジテレビで放映された時、日本全土1500万人の目を釘づけにし、視聴率は20%を越え、大きな反響を呼んだ。
2006年秋、日本列島を再び感動の渦へ巻き込むか。期待が高まっている。(文責:王小燕)
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