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『私と中国国際放送局』クイズ特別番組・その一
ーー中国国際放送局開局のいきさつ
   2006-06-08 14:37:05    cri

延安新華ラジオ放送局旧跡

 1940年代初頭。日本軍国主義による侵略戦争の時代。中国は戦火に包まれました。中国共産党とその指導者たちが中心となり、激しい抗日戦が展開されていました。当時、中国共産党の本部は、中国西北部の延安に置かれていました。ここに誕生したのが、「延安新華ラジオ局」。中国国際放送局の前身です。

 当時の、国内外の情況について放送すると同時に、ともに抗日戦を戦うよう広く呼びかけるためにラジオ局が必要だったのです。1941年12月3日。「延安新華ラジオ局」が初めて対外放送を行った記念すべき日です。ちなみに、1941年当時使われていたコールサインは「XNCR」。

中国対外ラジオ放送の初アナウンサー原清志

 この中国初の対外放送は、日本語によるものでした。中国にいる日本侵略軍に向けて呼びかけるためです。 このとき、アナウンスを担当したのは、反戦女士・原清志でした。つまり、原清志は、中国の対外放送における初めてのアナウンサーと言えます。しかし、放送といっても当時は、粗末な洞窟がスタジオ代わりでした。出力はたったの300ワット。それでも、これが、中国で外国人向けに行われた、初めての外国語放送だったのです。1941年12月3日は、中国対外放送開始の記念日と定められています。

 

陸汝富(中)

 当時、ラジオ局に勤めていた陸汝富は、このときのことを次のように振り返っています。陸汝富は「原清志さんは、日本人に対し、戦争の真実を訴えました。説得力のあるアナウンスでしたよ。このときの放送は、多くの人に影響を与えたんじゃないかと思います。その後、うちで働き始めた日本兵もけっこういました。戦争を放棄して、逃げ出してきた人達です。わたしは華僑で日本語を話すことができましたが、ラジオ局では、仰木さんという方が日本語のアドバイスをしてくれました。仰木さんも日本兵だったのですが、その後、うちでの仕事に従事していましたね」と述べました。

 

魏琳

 1946年。抗日戦争に勝利した中国。国民党が、共産党との連合政府を樹立することを拒否。共産党に対し武装攻撃を仕掛けてきました。独裁政府を樹立するためです。内戦の開始を受けて、1947年、延安新華ラジオ局は北京にほど近い河北省渉県に場所を移しました。同年9月には、英語放送も始まりました。初代英語アナウンサーを務めたのは、魏琳という女性でした。今年82歳になる魏琳は、当時のようすをこのように語っています。魏琳は「当時、スタジオは、河北省の村の、洞窟の中に設けられていました。設備は非常に粗末で、ドアすらなかったんですよ。羊のフェルトで出来たカーテンがドア代わりでした。でも、外にいる羊の鳴き声なんかが全部マイクに入るんですよ。意味がないですよね。また、当時は録音機もありませんでした。曲を流すときは、わざわざ文工団に来てもらって、マイクの前で歌ってもらっていました」と語りました。 

 この頃には、出力も10000ワットまで拡大しており、東南アジアなど、アジア一帯に放送が届くようになりました。気象条件がよければ、ヨーロッパや北米でも聞こえていたようです。

北京新華ラジオ放送局

 1949年、中華人民共和国が成立しました。「延安新華ラジオ局」は、首都・北京に移転。「北京新華ラジオ局」と名前を変えました。10月1日、中華人民共和国成立を記念した式典が行われました。北京新華ラジオ局は、この式典の様子を世界に向けて放送しました。

 新中国成立後も、中国の対外放送は続きました。世界各国に向けて、中国政府の方針や政策を伝えました。また、中国の政治・経済・社会など各方面の状況や、中国と各国の交流協力の実態などについても伝えました。中国と世界を結ぶ、友好の架け橋としての役割を担ってきたのです。

 1950年4月当時のコールサインは「Radio Peking」です。中国人なら誰もが知っている「東方紅」という曲に乗せたこのコールサインが、毎回使われていました。

 1950年には、ベトナム語、タイ語、インドネシア語、ミャンマー語の放送も始まりました。当時、ミャンマー語放送の立ち上げに携わった王善忠という男性がいます。彼は当時の苦労話を聞かせてくれました。王善忠は「農民の暮らしに関するリポートをやったときのことです。舞台は農村だから、ニワトリや犬の鳴き声を効果音を使いたいんだけど、録音機がない。だから、アナウンサーが自分で、鳴き声を真似して吹き込んでいたんです。また、今みたいな編集機もありませんから、間違えてもやり直しができない。一発勝負でした。スタジオに入る前は、何度も何度も練習していました。台本をまるごと覚えてしまうくらい、練習しましたよ」 と述べました。

 その後、ペルシア語、アラビア語、スワヒリ語、スペイン語などの放送も始まりました。放送言語は、1975年頃には43種類にまで増え、世界でも指折りの国際放送局に成長していったのです。

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