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愛憎の谷間を歩む(班忠義)
   2006-01-18 11:27:39    cri

 私は1987年にはじめて日本へ留学し、翌年の1988佳に上智大学新聞学研究科の修士課程で学び始めました。私と日本が結びついたのは、ある日本人との出会いがきっかけでした。そして今日までの人生へと導かれたのです。

 話は1973年に遡ります。その時私は中学2年生でした。中学2年というのは。後1年で中学を卒業後、ほぼ全員農村に送られ、農民になり、都会の生活と永別することを意味していました。私を含め同級生達は皆、前途への不安や絶望というような雰囲気に包まれていました。プロレタリア文化大革命の真っ只中で、中学生、高校生という知識を持つ青年を農村に送り、農民の再教育を受けさせるのは国策であり、誰も抵抗できないことだったのです。

 そんな時、私は姉の新居へ遊びに行きました。私より4、5年先に農村に送られた姉は田舎で結婚していたのでした。不思議なことに姉の家の隣に日本人がいました。中国語の下手な冊代の婦人でした。租。はこの日本人に日本語を教えてもらうことにしました。当時の中国と日本は国交を回復したばかりで、中国人にとっての日本のイメージは戦争映画で出ている残虐ざしかありませんでした。でも、誰も習わない日本語を身につければ、いつか役立つだろうと思いました。おばさんも快く引き受けてくれました。旦那さんは中国人で、曽という姓だったので、彼女を曽おばさんと呼んでいました。

 その時代、日大語を習うのは、ある種の勇気と忍耐力がいることでした。

 暗黒の強権の時代、農民になる自分の未来にみな絶望と抵抗を抱いていましたが、誰も免れることができませんでした。ただ、前途が暗くても、皆で同じく耐えていくことはある意味、結束を固め、慰めにもなっていました。そんな時に、自分ひどりだけ。誰も習わない日本語を独学することは、自分だけ外国へ飛び国際社会に活躍しようとするという、まさに死の戦いの中で一入だけ助かろうとする脱走其のような存在となり。日本語を勉強していることが発覚ずると、同級生からの嫌がらせ、いじめが始まりました。でも向学心と好奇心に駆られ、やめることはできませんでした。

中国人から見た日本
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