しかし日本語を習うといっても環境に恵まれていたわけではありまぜんでした。曽おばさんの家は私の実家とはかなり距離があっで、月1回、2回ほどしか行けないし、私が住んでいた撫順市内では日本語を教えてくれる学校もなく先生もいませんでした。勿論ラジオの語学講座もありません。どうしても日本語を聞きたくて、夜に短波放送で北京国際放送局の日本語放送を聞くことにしました。夜になると大きなラジオを庭に担ぎ出し、月夜の下で 「こちらは北京放送局です。」という日本語を聞いて楽し芭のです。しかし日本語の初心者である私はどうしても日本人向けのラジオ放送を聞き取ることはできません。よく聞いたのは当局の日本人向けの中国語講座でした。中国語の日本語訳を聞き。日本語のヒアリングに使ったのです。
中学校卒業のその年、毛沢東が死去し、翌年に大学の受験制度が復活し、自由に試験を通じて大学に上がることができるようになりました。私は日本語で優秀な成績をとり黒竜江大学日本語科に入りました。
大学卒業後、ある日本人の友人の助けで日本留学が実現しました。その高い学費を労働者家庭出身の私は払えませんでした。その時東京の品川にある東海幸という禅寺が、アジア出身の貧乏学生に支援の手を差し伸べていて、お寺で食住を無償で提供するほがに奨学金も出してくれました。1991年上智大学大学院新聞学修士学位を手にしましたが、ずっと心にかかっていることがありました。それは恩人の曽おばさんのことでした。
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