梅雨はもう明けたようだったが、このところ夕方近くになるといつも土砂降りの雨が2、3時間続いてはぴたりと降り止む。昨日、伊藤歯科医院に虫歯の治療に娘を連れて行った帰りに大雨に降られ、着ていたものがずぶ濡れになってしまった。娘はかえって興奮して「北京の雨みたい」と何度も私に言った。
私はしばし考えて、この感じは悪くないと思った。東京の雨はまるで日本語のように曖昧模糊としていることが多い。見ると地面が雨で濡れているのに、雨がいつ降りはじめたのかわからないようなこともある。台風のとき以外、豪快な雨が降るようなことはめったにない。
今日の午後、また天気がうっとうしくなり始め、部屋がひんやりと湿気で充ち、気分全体が不快な感じになっていらだち始めた。我慢を強いられるほどになり、何も手につかず、ただ座って昨日のような雨が降るのを待つよりなす術がなかった。
そんなとき、朝日カルチャーセンターで私の授業を受けている森山さんから電話がかかってきた。さして重要ではないやりとりの後、聞いたばかりですが、と森山さんが切り出した。「四竃さんが一カ月ほど前に亡くなられました」。この訃報は窓外の雷鳴のように、私にショックを与えた。
四竃さんも朝日カルチャーセンターで私の授業を受けていた一人であった。すでに七十歳を超えたとても上品な女性で、よく通る落ち着いた声で話す方であった。私の記憶にあるのは、彼女が自分の方から私のところに来て、授業以外のことについても私の意見を求めたことである。そんなことから、彼女が林語堂(注1)の小説「京華煙雲」の翻訳中であることを私は知った。また、林語堂の英文著作を探して欲しいと頼まれたこともあった。私は台湾の友人に手紙を書いて尋ねたが、探し当てることはできなかった。
それでも彼女はこの私の尽力に対して、いつかお礼をしたいと思っていたようだ。授業のあと毎回、私たちは喫茶店などでしばらく話をしたが、いつも私は自分の分の代金を払った。学生から個人的なもてなしを受けるわけにはいかないからである。
ついにあるとき、彼女は勇気をふり起こして私を食事に招待してくれた。年配者らしい物言いだったので、断りきれず私は招待に応じた。あいにくその日の正午は、レストランの多くが客でいっぱいだった。私たちはやっと日本人の経営する中華料理店を見つけた。料理はとてもお世辞の言えるような 。ではなかった。しかし彼女から多くの話を聞くことができた。
彼女は1926年、大連に生まれた。その後、満鉄に勤務する父君について天津や北京に行き、北京で女学校を卒業した。彼女が言うには、その頃が生涯でもっともすばらしい時期であったそうだ。中国人の子どもたちと一緒に人込みにまぎれて呉佩孚(注2)の出棺を見た記憶があるという彼女の話に、私は興味津々の気持ちで聞き入った。それを書くべきです、あなたなら中国語で書いても大丈夫ですよ、と私は彼女に勧めた。「以前書いたことがあります。タイトルは『「京華煙雲」に出会って』です」と彼女は答えた。
その文章は、彼女がなぜ「京華煙雲」という小説を翻訳しようと思い立ったかについて書かれている。「この小説の中で、中日戦争の勃発によって北京が日本軍に占領されます。当時父は北京に転勤になり私も北京日本高等女子学校で勉強していました。学校の体育の授業で私たちは負傷者の看護を学んでいて、先生が私たちを日本陸軍病院へ慰問に連れて行きました。その頃北京郊外の清華大学は日本陸軍病院に変わっていて、多くの日本人傷病兵が入院し、治療を受けていました。私の周りの戦争の雰囲気はその程度のものでしかなかったのです。日本の新聞は日本軍の勝利を連日報じていました。その同じ頃、中国各地の村や町では中国の人々が殺戮されていたとは……」
「私がこの小説の翻訳を決心したのは、日本人に中国と中国の人々の心情を理解してもらうためでした。6、70年も前、私たちの国が中国を侵略し、中国人の心と体を傷つけたことを日本人に知らせたかったのです」
「そうです、翻訳をしている間中、私の心の中には『贖罪』の二文字がありました。この本の翻訳は私が一人の日本人としてできる罪の償いであり、私は中国の人々の赦しを心から願っています」
目の前のこの物静かな老婦人が、心の中でこのような大きな苦痛に堪えていることに、私はまったく思い至らなかった。翻訳している間、針のむしろの上で筆をとっていた彼女の気持ちが私には理解できる。おそらく彼女は、絶え間ない曇天の下にいる気持ちで、この百万字近い大作に晩年の全精力を注ぎ込んでいたのだろう。ひと月の梅雨空にも我慢できない私は、四竃さんのその姿勢に敬服するばかりである。
私はやはり自分に馴染みのある「北京の雨」流のやり方で、自分の態度を表現して、彼女の文章を中国国内の雑誌に載せてもらった。四竃さんはとても喜んで私に手紙をくれ、その中で、私が彼女のために中国人に対して直接贖罪する機会を与えてくれた、と書いていた。しかし、その後すぐ、彼女とご主人の二人ともが癌に侵されているというニュースが伝わってきた。そして、彼女から送られてきた最後の翻訳書を私は受け取った。森山さんの話によると、四竃さんはとても安らかに息をひきとったそうだ。彼女はクリスチャンであった。今ごろ彼女は天国にいることであろう。
森山さんは付け加えて言った。「四竃さんは去年の秋、医者と看護婦さんの看護つきでもう一度北京へ出かけたそうですよ。北京にお別れを言いに行ったのでしょう」
私は四竃さんの翻訳書を中国現代文学館へ送りたいと切に思う。北京は四竃さんの気持ちを受けるべきであろう。私はここに一人の北京人として、この気高い日本女性を見送り、彼女のために祈りを捧げたい。アーメン。 (森山美智子・訳)
注
1 林語堂(1985~1976)。中国の作家・英語学者。米国ハーバード大学などに学び、北京大学等の教壇に立つ。ニューヨークに移住後、英文による小説やエッセーを通じて、欧米人に近代中国の動乱や抗日戦争を生き抜く同胞の姿などを紹介した。「京華煙雲」は抗日戦争の時代を背景に、ある家族の人間模様や個々の人生観を子細に描いた小説。
2 呉佩孚(1873~1939)。中国の北洋直系(現・河北省)軍閥首領。
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