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中国人の血が永遠に流れているー蒋ソウ
   2005-12-07 12:57:18    cri

 私は14歳のときに日本に来ました。来日のきっかけは非常に偶然なものでした。上海の中学校を卒業した年に、ちょうど1989年の天安門事件が起き、仕事で日本に来ていた両親は、娘をひとり上海に置いたら心配だということで、急遼私を日本に呼び寄せたのです。6月4日の一週間後、6月11日に、私は生まれて初めて飛行機に乗り、未知の国,日本に来ました。

 いまでもはっきり覚えていますが、当時、上海では市内の学生デモや列車事件などで、すべての交通が止まったままの状態でした。夜中に家を出発し、親戚のおじさんが私と大きなスーツケースを三輪車に乗せ、上海蛇橋空港まで数時間もかけ、漕いで送ってくれました。

 元々、子供の時から上海市の劇団で演劇やダンスをやったりしていたので、将来はアメリカにでも留学して、映画やテレビの役者か監督になりたいと思っていました。まさか日本に来て、いまのような人生になるとは、夢にも思いませんでした。

 私は中国で?年飛び級して中学を卒業したため、日本では高校に入る年齢に達していないという理由で、すぐに高校に入ることが出来ませんでした。仕方なく中学校3年生に編入し、結果として、中国と日本の二つの中学校を卒業したという非常に珍しい学歴となりました。

 上海にいた頃の私は、勉強がある程度出来て、演劇やダンスもよくやったりしていたので、とても明るく活発な子でした。しがし、日本に来てから、私の性格は180度変りました。15年前の日本では、中国と言えば、とても貧しい国というイメージしかありませんでした"私の着るものも、持つものも、すべてが見窄らしくで、田舎娘そのものでした。しかも、一言も日本語が話せなかったので、学校でひどいいじめに遭いました。言葉が分からないので、クラスの男の子たちに、ガンガン怒鳴られても、実は、何を怒られているのか全く分かりませんでした。昼間、学校で同級生に浴びせられた言葉を一生懸命暗記し、夜、家に戻って、辞書で調べたら、「ばかやろ」とか 「ぶた」とか、そこではじめて言葉の意味が分かるのです。私はこうして少しずつ日本語の単語を学びました。あの頃の私は、まるで失語症の子供のようになり、何ケ月も口を開くことがありませんでした。授業と授業の間は、いつも一人でトイレに入って、次のチャイムが鳴るまで、じっと一人で時間をつぶしていました。お昼休みは、かんなは自分たちが持参したお弁当を教室で食べるのですが、母が用意してくれた弁当は、中華料理が多くて、周りの生徒に 「臭いぞ」と怒られ、教室から追い出され、いつも一人で校庭の裏で食べていました。

 高校は英語で受け、外国人や帰国子女を受け入れるインターナショナルスタールに入りました。中学での経験から、「とにかく日本人になりたい。自分が中国人であることが恥ずかしい、何で自分の国がこんなに貧しいだろう」とずっと思っていました。

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