慶応の中国人留学生会や、留学生文化祭。スピーチコンテストなど。いろんな活動に積極的に参加しました。それがすごく楽しかったです。その頃から、テレビの仕事とか・ラジオのDJの仕事も始め、自分に対して少し自信がつきました。
大学卒業の年は 「就職氷河期」と言われ、どこもかしこも就職難でした。私の変わった経歴が良かったのか、幸運にも日本テレビの内定が決まりました。あとで聞いたのですが、日本テレビを受けたのは
日本テレビに入ってから、最初は社長室国際部で、日本テレビの番組を海外に販売する仕事をしていました。「もっと報道の仕事をしてみたい。記者になりたい。」と、会社の幹部にアピールしたところ" 「報道の場合は、事件があったら、すぐに海外に出なければ行けない。台湾に行くこともあるだろうし、中国パスボートでは難しいからね。。。」と言われましだ。 「じゃ、報道に行かせでくれるなら、国籍を変えます。」と、私は会社に宣言して,帰化を決めました。日本名の福澤真由美は、自分で考えましだ。日本に来て、大学時代から人生が初めて面白くなってきたので、慶応大学の創始者。福澤諭吉の苗字にしましだ。名前は、やっばり私の好きな映画ヒロインの 「真由美」を使いました。
「この子は、国籍を変えてまで報道に入りたいのか」と、人事局も驚いたそうです。帰化した直後、私は報道局に異動となりました。まず、報道局の政治部に配属されました。しばらく遊軍記者をやったあと、総理官邸に入り、当時の総理大臣森喜朗氏の総理番記者になりました。何万人もいましたが、実際、受かっだのはわずか2、30人でした。
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