(3日目ー8月21日、トルファンー敦煌)(3-2)
お土産店が立ち並ぶ中央にその入口が有った、そうここトルファン盆地の北側に位置する
火焔山の谷間にある「ベゼクリク千仏洞」である。ガイドブックの説明では{ベゼクリクとはウィグル語で「装飾された家」という意味で、麹氏高昌国と西州ウィグル国が栄えていた6世紀から14世紀まで開かれていた石窟寺院である。14世紀、ウイグル人は仏教を信仰していたがイスラム教の侵入に遭い、ベゼクリク千仏洞の偶像は破壊され、壁画なども剥し取られてしまった。また今世紀初頭外国人探検家達(スウェーデンのヘディン、ドイツのル・コック、ロシア、日本の大谷探検隊)によって壁画が剥し取られているため、現在では一部の仏画が残っているだけである}と言っている。
結構暑くなってきた中、谷間の断崖壁面にある石窟寺院へと下りて行くと見学の為に作られたであろう歩廊があり、片側が断崖で谷間は緑で覆われ川が流れ、反対側の壁面に大小の石窟があった。しかし度重なる破壊、盗掘により現在の窟数は60余りとのことである。
その中の代表的な石窟をガイドに説明を受けながら見て廻った。今から1,500年前にこのような厳しい環境下で描かれたであろう仏画は美しいと言うより、何か狂気すら感じさせられる。裏を返せば信仰の厚さ、深さがなせた業なのだろう。特に印象に残ったのは9号窟の「誓願図」だった。そこに入ってびっくりしたのは、回廊式になった廊下壁面が凸凹のレンガ下地で剥き出され、そこに描かれていたであろう誓願図が90%以上剥ぎ取られてしまいアーチ状の天井にその痕跡が多少残っていたからだ。前でも触れたようにイスラム教徒による破壊、各国の探検隊による壁画の剥ぎ取り、中でもドイツのル・コックによる持ち出しは大量で、それに刺激された諸外国が相次いで訪れて壁画を持ち出し今ではその写真が飾られているだけである。そしてその写真の壁画は第2次世界大戦でベルリン空襲に遭い、その殆どが破壊され僅かな模写が残っただけだそうである。
しばらく他の石窟も見て廻っていたとき、やけに熱心に仏画を見ている1人の西欧人に出会ったので話しかけると、彼は米国人で日本の埼玉に住んでいて、仏教美術に非常に興味があるとか、曹洞宗を信仰しているとかで敦煌、トルファン等を見て廻っていると話していた。
学校の英語教師をしていて、夏休みを利用して中国に来たと言っていたインテリジェンシイな青年との出会いだった。素晴らしい遺跡をみたが、後に残った印象は文明国による身勝手な破壊と言う感じが強かった。たしかにその時代の中国は混乱していて、壁画を持ち去った連中は、それ以上の破壊を恐れたり、学術的なことからも少しでも残したいとも考えたであろう。しかし15世紀頃西欧諸国がアフリカ、アジア、南北アメリカに対し行なったことと何ら変わりない。
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