「一得閣」は、謝松岱氏によって清朝の同治4年(紀元1865年)に創設された文房具の老舗で、北京南部の文化街として知られる瑠璃廠大通りにあります。
当時、南の地方から上京して科挙(中国で行われた官吏登用試験)を受験した謝松岱氏は、試験場で受験生たちが墨を擦る音を耳にして、墨汁を作るため貴重な受験時間を無駄にしたと痛感しました。謝松岱氏はその試験に落第しましたが、墨を擦らずにすぐ使える墨汁を開発しようと真剣に考えました。彼は繰り返し研究した結果、墨の塊を浸す方法で墨汁を作ることに成功しました。彼は科挙の試験場の外で自分の作った墨汁を売りさばき、受験生たちに大歓迎されました。その後、謝松岱氏は、文人が集まる瑠璃廠で二階建ての建物を購入し、店と工場が一緒になった墨汁の工房を開設し、墨汁を販売していました。当時、謝松岱氏は、自分の心を語った対聯(対句に当たるもの、普通は紙や布に書いたり、竹や木の板に刻んで、掛け軸として玄関の両側に掛けられる)、「一芸足供天下用、得法多自古人心」を書いたほか、自ら手がけた「一得閣」の大事を看板にしました。
その後、「一得閣」の名前は北京全体に知られ、有名な墨汁の店となりました。この看板は130年余りの歴史があるにもかかわらず今も新品同様で、「一得閣」の玄関にかけられています。
ところで、昔、謝松岱氏は、伝統的な技法と材料で墨汁を作るための主要な原料である油煙と松煙を作っていました。油煙の作り方は、一軒の部屋の中に数百の灯りを付け、灯りの上に数枚の鉄板を間隔をあけて積み重ねて、立ち上った油煙を鉄板に凝結させるものです。一番上の鉄板から取った油煙は「雲煙」と言い、質が最も良いものです。真ん中の鉄板から取った油煙は「中煙」と言い、質が少々劣ったものです。一番下の鉄板から取ったものは「落地煙」で質がさらに劣ったものです。
松煙を作る場合、室外でかまどを作り、その上に曲がりの多い煙突をつないで、かまどの中で松やにを燃やします。曲がりの多い煙突からは煙が漏れにくいことから、一定の時間が経ってから、煙突を取り外して、中に詰まった松煙を収集します。収集した油煙と松煙ににかわ、塩などを加え、数百回すり潰し、墨がやっと出来上がります。このようにして作った墨汁は、質にこだわったもので、滑らかに書けるほか、乾きやすく、墨跡が明るくて、表装にも適合しています。水と日当たりに強く、色がさめず、紙に吸い込まれにくいため、書道家や画家たちから高く評価されています。(翻訳:姜平)
|